昔は経血の処置、どうしてた?「生理用ナプキン」が登場するまで
衝撃的な生理用品の歴史をまとめた『生理用品の社会史』の著者、田中ひかるさん。古代は植物の葉や繊維、江戸時代は粗末な紙や綿を腟につめて経血を処置。明治・大正になっても”自己流”の時代が続いていたことをご存じでしょうか? 現在は当然のようにある生理用ナプキンが誕生したのは、わずか60年前のこと。生理用品の歴史は、私たちにいろいろな気づきを与えてくれます。田中さんに、古代から昭和までの経血の処置方法や生理用品の登場について、その歴史をお伺いしました。 【写真】世界の生理事情
■昔は、植物や麻、繊維を股に当てて経血を処置 ――昔の人々は、どのようにして経血を処置していたのでしょうか? 田中先生:人類がいつ頃から、どのような理由で経血を処置しようと考えるようになったのかは不明ですが、布や紙が発明される以前は、植物の葉や繊維を使っていたと考えられます。律令時代には、麻布や葛布の切れ端が主に使われていたのではないでしょうか。 ■平安~江戸時代…日本最古の医術書に経血処置用品が登場。布や紙、綿などが使われていた ――いわゆる生理用品のようなものは、いつ登場したのでしょう? 田中先生:絹が大陸から伝わり、貴族は、絹を袋状に縫い合わせ、その中に真綿を入れたものをナプキンのように当てていたそうです。一方庶民は、細長い布をふんどしのように縫い合わせた丁字帯のようなものを使っていたと考えられます。 田中先生:製紙法が日本に伝えられたのは7世紀初頭ですが、一般に普及したのは江戸時代以降になります。漉きかえした粗末な紙や綿を腟に詰めたり当てたりした上から、木綿製の丁字帯で押さえていたようです。 ――タンポンの原型のようなものに、下着をつけているような感じですね!
■明治時代…「衛生帯」「ゴム製猿股式月経帯」などの月経帯が発売される ――明治維新が起こって、西洋の文化も多く流入するようになった明治時代。生理用品にも変化はありましたか? 田中先生:明治時代には、上流階級の女性を対象とした『婦人衛生雑誌』に、月経についての記事が多く掲載されます。その目的は、当時の国家目標だった“富国強兵”を達成するための母体の改善でした。月経は、国の富強を保つための重要な生理現象とみなされるようになったのです。 同誌では、経血処置に使う布や紙は、清潔でなければいけないと説かれています。また、直接腟内に紙や綿を挿入することは“子宮病”の原因となるため避けるように、とも記されていました。 清潔な脱脂綿が流通するようになった1901年には、医師の木下正中さんが監修し、日本で初めて製品化された月経帯が『衛生帯』という商品名で発売されています。欧米の製品を真似たもので、革のベルトの前後に平たいゴムを繋ぎ、ゴムの上に脱脂綿の吸収帯を敷いて装着する、丁字帯の進化バージョンといえる物でした。しかし、現在の価格でおよそ1万円前後ほどしたため、一部の女性しか買えなかったようです。 ――当時は、販売されている生理用品はまだ特別なものだったんですね。 田中先生:そうですね。明治期には、「月の帯」や「ゴム製猿股式月経帯」などの広告が婦人雑誌に掲載されるようになりましたが、普及はしていません。 当時は、腟内へ直接挿入するタンポン式の処置法は、“子宮病”を引き起こすほか、性道徳上も望ましくないという考え方があり、「ゴム製猿股式月経帯」の広告にも「恐るべき自涜を防ぐ」という文言が記載されています。 ■大正時代…『ビクトリヤ』を皮切りに、ベルト式の生理用品が次々と発売される ――製品としての生理用品が登場しても、一般化するのには時間がかかったのでしょうか? 田中先生:明治末期の1910年ごろには、アメリカ製の月経帯『ビクトリヤ』が初めて輸入販売されました。しかし品薄だった上に、1円50銭という高価格で(当時の日雇い労働者の日当は56銭ほど)、これもあまり普及しなかったようですね。大正時代に入ると、ゴム製品を製造していた大和真太郎が『ビクトリヤ』の製造を開始。アメリカ製の半額以下である70銭で販売したことで、人気となりました。 ――半額になったとしても、当時の価値としてはお高めですね。 田中先生:そうですね。『ビクトリヤ』を皮切りに、腰に巻いたベルトに吸水帯を吊るすベルト式の月経帯がメジャーになり、『安全帯』や『プロテクター』、『婦人保護帯』、『カチューシャバンド』といった商品が続々と登場しましたが、それでも当時、これらを購入できるのは一部の富裕層でした。布や脱脂綿などをタンポンのように詰めるだけの女性が多かったのです。 ■昭和初期…洋装化が進み、ショーツ型の生理用品がメジャーに ――大正から昭和は、人々の服装が大きく変わった時代ですよね。生理用品も、それに伴い変化したのでしょうか? 田中先生:はい。女性の洋装化が進むにつれ、腰巻に代わってズロース(=ショーツ)が用いられるようになり、それに伴って、ベルト式が主流だった月経帯も徐々にズロース型へと変わっていきました。1930年代後半には、当時、最も人気があったと思われる『ビクトリヤ』や『フレンド』も、従来のベルト式に加えてズロース型を販売するようになっています。 1938年には、既製品のタンポン第一号『さんぽん』が誕生。脱脂綿を圧縮した砲弾型で、20mlの経血が吸収できたそうです。しかし、東京女子医科大学創設者である吉岡彌生さんの「女の神聖なところに男以外のものを入れるとは何事ぞ」という言葉に象徴されるように、タンポン反対派による医師たちの猛反発を受けました。さらに日中戦争によって脱脂綿が品薄となり、販売中止に至ります。 ■昭和中期…終戦によって月経帯の進化が再開 ――戦争による物資の不足は、生理用品にも影響していたのですね。 田中先生:非常に大きな影響を受けました。戦後、1951年に脱脂綿の配給制が解除されると、再びさまざまなタイプの月経帯が発売されるようになりました。布製のショーツの股の部分にゴムが貼ってあるタイプが最も一般的で、汚れが目立たないという理由からか、色は黒に限られていました。しかしこれらには、蒸れる、肌触りが悪く湿疹やかぶれを起こす、ゴムに乗せた脱脂綿が移動して経血が漏れるといった欠点がありました。