ノンスタ石田が明かす「漫才」と「コント」の違い コント寄りの漫才がめちゃめちゃうまかった和牛 ”漫才じゃない"元祖ジャルジャル、M-1で評価の訳
■漫才の醍醐味は「ナマの人間のエネルギー」 共闘型の漫才やコント師による漫才が評価されるようになってきたからといって、「しゃべくり」がダメになったかというと、全然そんなことはありません。漫才の一番の醍醐味は「ナマの人間の掛け合い」を見せるところやと思います。 ボールを息で吹いて浮き上がらせるパイプの形のおもちゃがありますよね? 漫才の掛け合いは、いってみればあのボールをずっと落とさないで互いにパスし続けるようなものです。
一度落ちたら、そこから再び上げるのはめっちゃ難しい。だから、いかに一度も落とすことなくラリーを続けるか、徐々に盛り上げてピークに持っていくかが勝負です。 この「素の人間同士のしゃべくりで勝負できる」というのが、漫才の強みです。 コントでは、こういう面白味は出しづらい。場面も役柄もきっちり決まっていて、自分ではない人間を演じているので、ナマの人間そのものの掛け合いが見えづらくなるからです。 だけどなかには、策に溺れて、漫才の強みを生かし切れていないコンビもいます。こういうコンビは、互いに言い込めたり言い込められたりの掛け合いを、辛抱強く重ねていくということができていないと思うんです。
早く笑いのピークに到達したい。特大のホームランを打ちたい。だから、「到達したいゴール」に到達するため、「打ちたいホームラン」を打つために、策を巡らせたくなる。気持ちは痛いほどわかります。 でも、「このゴールに到達するために、ここでちょっと布石を打っておこう」みたいなくだりをネタに入れてしまうと、とたんに予定調和になってつまらなくなってしまうんです。 正直、もったいなく感じます。漫才師がコント師に唯一勝てるのは人間同士のしゃべくり、いわばナマの人間のエネルギーやのに、それをしっかり出せていないわけですから。
見ている人に「このはちゃめちゃな立ち話は、いったいどこに行くんだろう?」と思わせる先の見えなさこそが、漫才の醍醐味です。 一度もボールを落とすことなくラリーを続け、最終的にはとんでもない熱量の到達点にバコーンと上げていく。それが漫才の理想形やと僕はつねづね思ってるんです。 僕らNON STYLEの原点は、路上で見知らぬ人たちの前でやる「ストリート漫才」です。道を歩いている人の足を止めさせ、僕らの掛け合いの「熱」で引きつける。布石としてのボケやツッコミをしている余裕なんて、少しもありませんでした。