「まじめにやったところで邪魔しか入らない」京アニ事件、青葉被告の軌跡(前編)
▽父親の死 高校卒業後、「ゲーム音楽を作る人になりたい」と東京都新宿区のコンピューター関係の専門学校に入学した。新聞奨学生として寮に入り、仕事をしながら学校に通い、生活費は全て自分でまかなった。しかし教育内容について「時間をかけて教えすぎている」と感じ、仕事で時間のない生活のために不満を募らせ、半年後に辞めてしまった。「同級生から定時制卒なのをばかにされた、と言っていた」と妹は明かした。 楽器は売ったり譲ったりして見切りをつけ、シンセサイザーは破壊した。兄によると、「自分に音楽は合っていない」とも言っていたという。その後、コンビニで働き始め、隣接する春日部市で独り暮らしを始めた。 青葉被告が21歳の1999年12月、父親が亡くなった。高校4年のときに交通事故に遭ってタクシー運転手を廃業。入退院を繰り返しており、家で妹が世話をしていたが、ある日、妹が仕事から帰宅すると布団の中で亡くなっていた。妹によると、駆けつけた被告は「前は元気だったのに」と泣いたという。死因は心不全だった。ただ「あれだけけんかした仲で、最後の最後におまえの葬式には絶対に出ないと通告していた」として、葬儀には出席しなかった。
妹を通して連絡があり、離婚した母親も駆けつけた。再会は12年ぶりで、母親は子供ら3人が「すさんだ目で見てきた」と振り返る。青葉被告は「いまさら出てくるのはあり得ないだろうという感じでした」。被告と母親は、ほとんど会話を交わさなかったという。 青葉被告は母親に対して以下の心境を述べている。「自分は(母親に)手がかかると言ってかなり面倒くさがられていた。母は自分の好きなことしかやらない。兄と妹だけかわいがった」「元々自分はおやじに育てられた気持ちがあって、母に世話になった覚えはない」 ▽下着泥棒 コンビニは複数の店舗で働き、最も長い所では7年続いた。店長が新人の育成をせず、「あまりにも仕事を押しつけられ、いくらなんでもあり得ない」と不満を募らせて辞めた。それから単発で派遣の仕事をいくつかしたが、「疲れ果てちゃって、何も行く気にならずに辞めました」。生活保護を受けようと春日部市役所を訪れたが、「そのまま働いてください」と窓口で断られた。半年ほど無職が続き、生活費が払えなくなって水道も止まり、公園の水で洗濯をしたり、パンを万引したりして暮らしたという。