「まじめにやったところで邪魔しか入らない」京アニ事件、青葉被告の軌跡(前編)
36人が亡くなった京都アニメーション放火殺人事件の公判では、殺人罪などで起訴された青葉真司被告の被告人質問や家族の供述調書の朗読があり、これまで詳細が不明のままだった被告の前半生が明らかになってきた。戦後最悪と呼ばれる放火殺人事件に至るまで、被告はどのような人生をたどったのか。関東地方に住む平均的な核家族の一員として生まれた被告が、両親の離婚をきっかけに父子家庭での虐待や貧困を経験、精神的不調も加わって社会的な適応が難しくなり、家族や他者への憎悪を蓄積させていく様を追った。(共同通信=武田惇志、真下周) ▽5人家族 青葉被告は1978年5月、埼玉県浦和市(現さいたま市)で生まれた。トラック運転手の父親、専業主婦だった母親、2学年上の兄、1学年下の妹との5人家族で、同市で暮らした。 母親の供述調書によると、子どものころの青葉被告は「かわいらしい元気で活発な子で、コミュニケーションを取って友達をつくることができた」。学校の成績は普通で、母親に褒めてもらうために家事の手伝いをして「お母さん、やったよ」と得意げに報告するようなこともあった。とりわけ兄とは仲が良く、兄の供述調書によると、一緒に「スーパーファミコン」のゲームをしたり、アニメ「ドラゴンボール」をテレビで見たりしていたという。被告も、家族でディズニーランドへ旅行に行ったり、軽井沢に行ったりした思い出を被告人質問で語っている。
しかし、主婦だった母親がミシン販売の営業の仕事をするようになったことがきっかけで、幸せだった家庭に次第に影が見え始める。営業がうまくいっていることに父親が嫉妬するようになり、外回り先で浮気していると疑われ始めた。口論が始まり、平手でたたいてくるようになった。いわゆるDV(家庭内暴力)だ。一時、青葉被告の妹を連れて避難したが、父親は知人の家を見回るなど執着し、逃げ場がなくなって離婚を決めた。被告が小学3年生(9歳)だった1987年のことである。母親が家を出て、子どもたち3人の親権は父親が持った。母親はその後10年以上、子供らと連絡を取らなかった。 ▽虐待と貧困 父子家庭になると、父親は次第に兄と青葉被告に対して厳しく当たるようになり、冬に裸で2人を立たせて水をかけたり、眠らせなかったりした。2人で「父から逃げたいね」と語り合って母親の居場所へ行ったが、母方の祖母に「もう、うちの子ではない」と言われ、会わせてもらえなかったこともあったようだ。被告は虐待について「日常茶飯事すぎて覚えていない」と話している。虐待は、兄弟2人の体が大きくなるまで続いた。