「君死にたまへ」と言わんばかり!? 与謝野晶子は太平洋戦争で「軍国の母」になっていた
日露戦争に出征した弟を想う「君死にたまふことなかれ」が有名な与謝野晶子だが、太平洋戦争に息子が向かうときには「勇ましく戦ってこい」と送り出しており、純粋な反戦詩人というわけではなかった。与謝野晶子とはどんな人物だったのだろうか? 本稿では、文豪の知られざる逸話を紹介する書籍『こじらせ文学史』から一部を抜粋・再編集し、与謝野晶子の素顔に迫る。 ■夫・鉄幹への一途な愛情 「与謝野晶子」と「バナナ」は、一緒に検索してはいけないワードだと言われる。検索すると、晶子が自分の膣の中で一晩寝かせたバナナの浅漬を、与謝野鉄幹が朝食にしたというような話が出てくるからだが、噂の出処は金子光晴のエッセイ『人非人伝』である。 大正時代、「相対会(そうたいかい)」という性科学研究サークルを主宰していた小倉清三郎という学者のもとには、芥川龍之介や平塚らいてふ、大杉栄などの著名人が集い、「相対」という会報に自身の特異性体験を匿名投稿していたが、晶子の夫・鉄幹も「相対会」への入会を希望した。 小倉から、これまで特異な性体験はあるか聞かれた鉄幹が、得意満面で先述のバナナの話をしたのだ(ただし、小倉からは「そんなことは誰でもやっています」と言われてしまったらしい)。 とんでもなく思える「バナナ伝説」だが、その信憑性に疑いを持てないほど、晶子から鉄幹への愛は激しく、深かった。 21歳のときに鉄幹と出会って恋に落ちた晶子は、彼を追って上京、内縁の妻や他の女弟子との三角関係を勝ち抜いて彼と結婚した。その後、晶子は鉄幹との間に1人の子どもをもうけ、その養育費をほぼひとりで担う、一家の大黒柱となっている。 夫・鉄幹の黄金時代は明治後期だったが、彼のロマンティックすぎる作風は時代にすぐに合わなくなり、稼げなくなってしまっていた。夫が元気をなくすのが耐えきれない晶子は、明治4年(1911)には、2000円(現在の貨幣価値でおよそ2000万円以上!)もの大金を稼ぎ、鉄幹を憧れの国・フランスまで旅立たせてやっている。 しかし、家の中に夫がいなくなると寂しくてたまらなくなり、今度は自分の旅費も捻出し、フランスまで夫を追いかけていってしまう。そして、鉄幹との再会の喜びを次の歌に詠んだ。 〈ああ皐月 仏蘭西(ふらんす)の野は 火の色す 君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟〉 赤いコクリコケシの花が咲き乱れるフランスの5月の野原を「火の色」と表現したあたりには、いくつになっても旦那にガチ恋し続けた晶子の情熱が重ね合わされているようだ。 ■黒歴史になった『みだれ髪』 日露戦争の真っ只中、実家の跡継ぎだと目されていた弟・籌三郎が出征する際、与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」という詩句で、平和の尊さを訴えた。それゆえ反戦運動家のイメージも強いが、それは彼女の若い頃に限定した話にすぎない。のちには見事に右傾化しているのだ。 「君死にたまふことなかれ」から38年後、四郎という息子を太平洋戦争に送り出すときには〈水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍(いくさ)にゆく たけく戦へ〉――天皇陛下のために戦ってこい、わが子・四郎よ!という歌まで詠むようになった。時代とはいえ、「お国のために君死にたまへ」と言いかねない思想の転換である。 そして「軍国の母」となった晶子にとって、青春時代に愛と性の自由を詠み上げた『みだれ髪』の歌などはむしろ黒歴史となり、大胆な性愛表現については、道徳的な観点から見て正しくなるように推敲している。たとえば〈春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ〉は、〈春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある血を 手にさぐるわれ〉と改変されてしまった。 画像…与謝野晶子詩歌集(創元社 1952)出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹