“嫌われた球界の最長老”広岡達朗が辿り着いた哲学…「人はなぜ生まれてくるのか?」
“管理野球”で優勝に導く
初めて広岡達朗と接触したのは、今から5年前だ。 週刊誌の「早慶」企画でインタビューをやることから何かが、いや、すべてが始まった。そのすべてが『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社)の評伝を上梓したことでもある。 【一覧】プロ野球「最も愛された監督ランキング30」最下位は、まさかの… 1970年後半から80年代にかけてヤクルト、西武で監督を務め、計7年間の在任期間で四度のリーグ優勝、三度の日本一。それも2つとも弱小チームを率いての優勝だけに価値があり、三原修、水原茂に次いで史上3人目のセ・パ両リーグで優勝した監督でもある。 輝かしい経歴は何年経っても色褪せることはなく、国立国会図書館に行くと山のように広岡を取り上げた記事がヒットした。ただ、関係各位から聞こえてくるのは「気難しい」「面倒」「老害」といった耳が痛い評判ばかり。紐解けば、古今東西、これだけ選手たちに嫌われて結果を出した監督は、広岡ただ一人であろう。 今から45年以上前の春季キャンプで当時まだ珍しかった玄米、豆乳を推奨した食事改善とアルコール禁止(休み前以外)を堂々と掲げ、選手たちは「ふざけんなよ」とストレスと怒りが溜まりまくった。特に、ヤクルトでは若松勉、大杉勝男、松岡弘、安田猛、大矢明彦、西武では田淵幸一、江夏豊、東尾修、大田卓司といったベテラン連中から陰でクソミソに言われ続けていた。 おまけにシーズン中でもベテラン、若手関係なく高校野球のトーナメントさながらの基礎の反復練習を強いられる。遠征先の宿舎の屋上でも「違う」「ダメだ」と叱咤ばかりに素振りやシャドーピッチング。怒りを通り越して殺意を芽生える選手も多数いたという。 広岡野球イコール“管理野球”が代名詞となり、完全管理化のもとで選手をコマのように扱い、弱小チームを変貌させ優勝を飾った。
「巨人は堕落している」
ある意味、野球界のアンタッチャブルな存在に初めての取材を依頼するときなんかは、失礼がないように直筆の手紙をしたためたものだ。取材を快諾してくれますようにと願を込めながらポストに投函した2日後の正午過ぎだ。 「トゥルルルン、トゥルルルン……」。無機質な機械音がけたたましく鳴った。勧誘か、間違い電話か……、ほとんど鳴ることはない自宅の固定電話だけに「誰だよ!?」と訝しみながら受話器を取った。 「あの、広岡ですけど、お手紙拝見しました」 物腰は柔らかいながらも、はっきりとした物言いが耳に届く。「え、広岡さんっ……」思わず心の声が漏れる。あまりに突然で虚をつかれたため、受話器を片手に「わざわざお電話いただきありがとうございます」と反射的に頭を下げた。 恐縮しながらも取材の意図を説明し終わると、広岡はいきなり読売巨人軍のことを捲し立てるように話し出す。「巨人は堕落している」から始まり、“打撃の神様”と評される川上哲治への批評、そしてプロ野球界全体についてダメ出しが続いた。なんとか軌道修正して取材を無事に終えることができた。取材の礼を述べると、 「もし何かわからないことがあれば遠慮せずに電話してきてください」 広岡は優しく語りかけてくれ、電話を切った。気難しいイメージは、いっぺんに吹っ飛んだ。 名将・広岡達朗と縁ができたのは、そこからだった。およそ十日に一度は遠慮なく電話をさせてもらう間柄になった。一度の電話でおおよそ30分ほどザックバランに話をしていただく。あまりに何度も電話をしているので、お礼がてらに沖縄の県産品を贈ると、届き次第すぐに電話が来る。 「こういうのは届いたらすぐに連絡したほうが相手は安心するからね」 手紙を出してもすぐ電話をくれる。御歳92歳の野球界の大レジェンドは、五十路の小僧にも律儀に礼を欠かさない。頂点を取った人間の礼節と謙虚さにあらためて触れ、襟を正す思いがした。 「あなたおいくつ? ん? 50なんてまだまだこれからだな」 電話で言われたときは、己の未熟さとヒヨっ子加減を再認識させられた。