遠藤航がリヴァプールで不可欠な存在になるまで。恩師が導いた2つのターニングポイントと原点
海外を視界に捉えた2015シーズン「すべての面で平均値を上げていく」
再びJ2を戦った2014シーズン。遠藤は韓国・仁川で開催されたアジア競技大会に出場するU-21日本代表に招集され、湘南を留守にした4試合を除く38試合に出場。そのうち37試合でフル出場を果たすなど、3バックの右でタフネスさも発揮しながら1対1における無類の強さ、そして積極的な攻撃参加を磨いていった。 浦和レッズから届いたオファーに断りを入れ、愛着深い湘南の副キャプテンとして3度目のJ1へ挑む2015シーズンの開幕直前。22歳になった遠藤は、出場資格を持っていた翌年のリオデジャネイロ五輪を含めて、胸中に思い描いてきたサッカー人生の設計図をこう語っている。 「もちろんオリンピックも大切だけど、今シーズンにJ1で活躍すればA代表に呼ばれるチャンスも出てくると思っている。湘南で任されている3バックの右だけでなく、3バックの真ん中や4バックのセンターバックもできて、オリンピック代表で任されているボランチでもプレーできる。いわゆるオールラウンダー的な選手として、将来的には海外でプレーする選手になりたい。自分が理想として描いているイメージに、湘南での日々で少しずつ近づいている実感がある」 さらに伸ばしていく点を聞くと、間髪入れずに「すべてですね」と貪欲な答えが返ってきた。 「自分としては『ここが飛び抜けている』という選手にはなりたくないというか、すべての面で平均値を上げていく作業をこれからも続けていきたい。センターバックならカバーリングや縦パスの精度であり、ボランチならば最終ラインの前で相手を潰せる守備力や攻撃への関わり方といった感じで、任せられるポジションによっていろいろな特徴を自分の引き出しのなかから取り出せるようにしたい。その方が面白くて、やりがいのあるサッカー人生になると思っているので」
代表で「デュエル」を象徴する存在に。成長の礎となった連戦下の自己管理
その後の遠藤のキャリアは、22歳の時点で描いていた青写真のほぼすべてが具現化されている。ターニングポイントになったのは、言うまでもなく3バックの右へのコンバートとなる。 例えば冒頭で記した、2015年8月の右サイドバックでのA代表デビューも必然だった。同年3月に就任したヴァイッド・ハリルホジッチ監督がすぐに日本へ広めた「デュエル」は、湘南で3バックの右を務めて以来、遠藤が重点を置いて取り組んできた1対1の攻防そのものだったからだ。 さらにボールを奪った後の縦への積極的な攻撃参加やクロスなど、湘南で見せていたプレーの数々は、そのまま右サイドバックに置換できるとハリルホジッチ監督は考えた。 東アジアカップの全3試合、計270分間にフル出場して8月10日に帰国した遠藤は、中国戦から中2日で迎えた12日の清水エスパルス戦で、何事もなかったかのように戦列に復帰している。 主戦場の3バックの右で先発フル出場した遠藤は、鄭大世やミッチェル・デューク、ピーター・ウタカら清水のFW陣と激しい攻防を展開。2-1で勝利した試合後の公式会見で、曺監督は代表帰りの遠藤を出場させた采配を問われた。 「航を使わない試合展開を、僕自身、まったく考えていませんでした」 迷わずに答えた指揮官は、清水戦の前日練習で故障につながる蓄積疲労などがないと確認した上で、遠藤を先発させた最大の理由として「帰ってきたときの顔、というのかな」と明かしている。 「いまが伸びるときだ、と。若干22歳の選手が、A代表のプレッシャーのなかで3試合を戦った。湘南という池のなかで泳いでいたのが、例えば太平洋にパッと放たれても同じ水温で、同じ魚がいて、同じプレーをしなければいけないと肌で感じたはずで、航のメンタル的な充実度や、湘南で積み重ねてきたプレーは間違っていなかった、とわかった気持ちをピッチに落としてほしかった」 曺監督は同時に過密日程下における選手起用について、持論をまじえながらこう言及していた。 「スポーツ科学的には連戦が与える疲労感は強いと思うけど、疲労感があるなかで試合をしていかないと選手たちは成長しない。現場を預かるわれわれ指導者が、選手たちに『タフになれ』と求めていかない限りは、成長というものは成立しないと思っている」 ヨーロッパのトップリーグで活躍する選手たちのように、過密日程下でも心身両面で自己管理を徹底しながらタフに戦い抜いていく。試合後に疲労感よりも充実感を漂わせ、笑顔を浮かべた清水戦は遠藤にとって、その後の「鉄人ぶり」へとつながっていくもうひとつのターニングポイントとなった。