死の淵からマツダを復活させた1本のビデオ
マツダが一度“死んだ”日
話はバブル末期まで遡る。マツダは1989年、販売台数100万台を目標に、課題だった国内販売強化の切り札として、販売店の5チャネル化を打ち出した。ただ5チャネルと言ってもピンとこないかもしれない。分かりやすい指標として他社の動きを見てみよう。世界一の販売台数を持つトヨタは当然国内他社を大きく引き離す多商品ラインナップを持っているが、そのトヨタの販売チャネルですら現在4チャネルである。別ブランド扱いのレクサスを加えてようやく5つだ。 しかしトヨタの4チャネルはもはや例外の様なもので、日産はかつての5チャネルを今では2チャネルに統合した上で、その2チャネルでも取り扱い車種の差はない。ホンダはかつて3チャネルだったが、日産同様販売車種の差をつけることを止めた。日産とホンダは現在事実上の1チャネルである。
自動車ディーラーのチャネル統合は、2000年代の中ごろから終わりにかけて起こった流れではあるが、思いついてすぐ実行に移せるような簡単な話では無く、地域とチャネルのマトリックスでそれぞれ独立した無数の販売会社間の調整など、入念な準備がいることから考えて、遅くとも1990年代の終わりごろにはもう手を打たねばならないと覚悟するほどの顕著な現実になっていたことが推測される。多チャネル時代がまもなく終わろうとしているまさにその時に、マツダは社運を賭けて大勝負に出てしまったことになる。 当然商品も販売チャネルに合わせて多品種化される。当時筆者は自動車雑誌の編集部にいたが、編集部でもマツダの商品ラインナップを全て理解しているスタッフがほとんどいないようなありさまだった。クルマで飯を食っている連中でそうだから、ユーザーに商品が理解されるはずもなく、マツダが狙った多チャネル化、多商品化は後にブランド戦略の失敗例として挙げられるほどの見事な不発に終わった。しかも不運なことに多チャネル化にカウンターパンチを浴びせるように、スタート数か月後にバブルが崩壊したのだ。