死の淵からマツダを復活させた1本のビデオ
社内で言われた“変革か死か”
ひとたまりもなかった。わずか5年で5チャネル構想は終わり、販売店は統合されて激減する。あちこちでマツダ倒産の声が真実味を持って語られた。広島県の経済に及ぼす影響がなければ、銀行が見放しても少しもおかしくない状況だった。それだけの危機を乗り越える時に自動車メーカーが打つ手はほぼ選択の余地がない。リストラと新型車開発の凍結だ。まず何よりも先に出血を止めないと確実に死ぬ。 「あの時、人がどんどん辞めて行きました。会社はバラバラになってしまって、もう本当にダメかもしれないと私も思いました」。取材に付き合ってくれた4人のマツダの人のうち、ベテランと見える人はそう辛そうに回想した。リストラと開発の停止。それで士気が落ちないはずはない。会社の中は日々お葬式のような雰囲気だったことは容易に想像される。 「あそこにだけは戻りたくない。それは全員一緒です」広報担当の人は苦笑気味にそう言った。「あの時、社内では Change or Die (変革か死か)と本当に言われていました」。 Change or Dieは「知の巨人」とも「マネジメントの父」とも言われた経営学の大家ピーター・ドラッカーの言葉だ。余談だが、世界恐慌後、混乱の渦中にあったGMに招かれて徹底的に社内を調査して生まれた2冊の著書の内の1冊が、あの『マネジメント』である。GMはマネジメントによって躍進し、フォードを抜いた。マツダとフォードの縁(えにし)を考えると何とも壮大な歴史の伏線だ。 今日に至るまで多くの経済人がChange or Dieを至言として挙げるが、全社員がヒリヒリするほどの危機感を持ってその言葉を受け止めた例は果たしてマツダの他にどれほどあるだろうか。 1996年、メインバンクの働きかけもあって、以前より提携関係にあったフォードが出資比率を33.4%に引き上げ、フォードからすでにマツダへ送りこまれていたヘンリーD. G. ウォレス氏を社長に据えた。以後、7年間にウォレス氏に続いて3人の社長がフォードからやってくる。歴史にIfは無いというが、それ以前から専務としてコストカットの指揮を執ったゲイリー・ヘクスター氏を含めて、フォード出身者の尽力がなかったらマツダは瀕死の縁から這い上がっては来られなかったと言う意見は多い。