邪馬台国は、九州から畿内へと「移動」した? 「まつろわぬ民」の鬼伝説に隠された真実とは【古代史ミステリー】
仲哀(ちゅうあい)天皇に退治されながらも、身の丈30mもの巨大な牛鬼として蘇って神功(じんぐう)皇后の前に現れた塵輪鬼(じんりんき)。そこに現れた住吉明神は、これを投げ飛ばして見事退治する。しかし、当時の倭国と周辺国の関係性から考察すると、塵輪鬼の異なる正体が類推できる。 ■仲哀天皇に誅された岡山県瀬戸市牛窓の伝承・成仏できず大牛に変身 第14代仲哀天皇の頃のお話である。正確な年代は定かではないが、およそ4世紀中~後半のことと考えていただきたい。『日本書紀』によれば、仲哀天皇は、「熊襲(くまそ)よりも先に新羅を攻めよ」との神託に従わなかったことで、神罰が下ったことになっている。結局、熊襲討伐を果たせなかったばかりか、病に倒れて亡くなったという。 ところが、地域によっては、その様相が大きく異なって伝えられているから面白い。例えば、岡山県瀬戸市牛窓地区の伝承を見てみよう。ここでは、仲哀天皇が熊襲討伐に向かう途上、その進軍を阻止しようと、新羅から送り込まれてきた塵輪なる悪鬼が登場して、大立ち回りを演じたという。 塵輪とは何とも奇妙な名前(朝鮮語に由来するとの説も)であるが、その姿も実に奇抜。色は赤く(鋳物師集団を表すものか)、頭が8つもあった(朝鮮半島から渡来した鍛治の神も頭が8つあったというが…)上、翼があって自在に飛び交うことができたとか。これに対して仲哀天皇は、5万余もの兵を従えて立ち向かうことに。果敢にも、自ら弓を射てこれを仕留めた…というから恐れ入る。正史に記された天皇像には見られない、勇壮な武人としての姿が伝えられているのだ。 この時斬り放たれた頭が鬼島(黄島)に、胴が塵輪島(前島)に、尾が尾島(青島)になったとも。牛窓港沖合に浮かぶ島々がそれである。ただしこの戦いのさ中、天皇もまた流れ矢に当たったことがもとで亡くなったことも伝えている。 天皇崩御に、悲しみ暮れる皇后。それでも、意を決して首謀者である新羅の王子・唐琴(からこと)との戦いに挑んだようである。彼女が自ら放った矢が、見事、唐琴に命中。撃退したその場所が、唐琴の瀬戸と呼ばれる海峡だと締めくくるのだ。 実はこの物語、話はこれだけでは終わらない。その後、皇后が西に向かって熊襲討伐を果たすことになるが、その帰路のこと、成仏しきれなかった塵輪が、今度は巨大な牛鬼に変じて、またもや皇后一行に襲いかかってきたというのだ。身の丈10丈(約30m)もの大牛となって、船を転覆させようとしたとか。 この時何処からか現れて一行を救ったのが、住吉明神(皇后に神託を下したのもこの神)であった。翁の姿となった明神が、牛鬼の角を持って投げ飛ばして退治。その亡骸が落ちたところが骸島(むくろじま/黒島)に、はらわたが百尋岨(ひゃくひろそわえ/百尋礁)になったともいわれる。牛が転(まろ)ぶことが転じて、牛窓と呼ばれるようになったと言い伝えられている。 以上が岡山県瀬戸市に伝わる伝説であるが、これとよく似た話が、山口県下関市にも伝えられている。戦いの舞台は、下関市の豊浦宮(忌宮神社)。ここには、塵輪が退治された後に埋めて石を乗せたという「鬼石」なる遺物が残されている。毎年8月7~13日の夜に催される数方庭祭は、この説話が起源となったもの。「鬼石」の周りを高さ20mもの大幟などを持って踊りまわるという、実に奇抜な祭が、今日まで催され続けているのだ。 ■仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰の奇妙な関係とは? 実はこの塵輪伝説、似たような逸話が『日本書紀』にもさりげなく記載されているが、これは注視しておくべきである。皇后が熊襲を退治しようとした時(あるいはその後のことか)のこと。香椎宮の南に位置する荷持田村(のとりたのふれ/福岡県甘木市野鳥)で、羽白熊鷲(はじろくまわし)なる怪しげな者がいて、皇命に従わず、人民を掠(かす)めていたという。 これを皇后が退治しようと、松峡宮(まつおのみや/福岡県朝倉郡筑前町)から層増岐野(そそきの/福岡県朝倉郡夜須町)に向かい、そこにいた羽白熊鷲を殺したというのだ。翼があって高く飛ぶことができたというから、まさに塵輪とそっくり。この後、皇后は山門県(福岡県柳川市、みやま市)まで南下して、土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)を殺害したとも付け加えている。 気になるのは、ここに登場する地名の多くが、筑後川流域だったという点。筑後川流域といえば、邪馬台国九州説派の多くが、邪馬台国の比定地として掲げるところである。この邪馬台国のかつての本拠地だったと思われるところが、4世紀中頃になぜか熊襲の領域になっていた…というのが引っかかるのだ。 もしかしたら、邪馬台国は、当時対立していた狗奴国(くぬのくに/熊襲の前身か、あるいはその南に熊襲が暮らしていたか)に破れて居住地を追われたか、あるいは乗っ取られたのではないかとも考えられるのだ。敗れた邪馬台国の残存勢力がここを脱出して、大和を目指した(同盟国であった伊都国や宇佐方面の一部勢力が加わった可能性もある)と考えられないだろうか? それが神武東征物語として語られたのではないか…という気がしてならないのだ。 気になることがもう一つある。それが、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰(たけしうちのすくね)の三人の関係である。応神天皇は神功皇后と武内宿禰の子であったとの説(応神天皇が神功皇后の娘婿だったとの説も)も根強いが、皇后と宿禰が示し合わせて天皇を陥れた(殺害したとも)との説も見逃せない。本来の正当な後継者は忍熊皇子(おしくまのみこ)らで、皇后と宿禰の二人が自らの子(後の応神天皇)を押し立てて、王朝を簒奪(さんだつ)したとまでいわれることもある。 ここで思い起こされるのが皇后の出自である。『日本書紀』によれば、母方の祖先が新羅から渡来してきた王子・天之日矛(あめのひぼこ)であったとする。となれば、皇后自身が新羅王族の血を受け継いだ者だったはず。自らの原郷だったにも関わらず、豊富な鉄資源に目が眩んで新羅攻略に走ったのではないか? 新羅侵攻に反対する天皇を無視して侵攻を強行した…というのが実情だったとも思えてくるのだ。それに手を貸したのが武内宿禰で、牛鬼に襲われた皇后を救ったという住吉明神が翁の姿に変じたというのも、長命であった武内宿禰のことを暗示しているかのよう。結局、新羅攻略を目的とした結果として、王朝簒奪が成し遂げられてしまったと考えられなくもないのだ。 その真偽はともあれ、当時、倭国と新羅が対立していたことは事実である。新羅が、ヤマト王権と熊襲の対立を煽って内部崩壊させようと計ったことも、十分あり得る話である。 また、ここでいうところの新羅とは、朝鮮半島に築かれていた新羅国ではなく、倭国内に勢力を張っていた新羅王朝だとの見方があることも付け加えておきたい。備前(岡山県)に新羅王朝があったと見なすのが『古代日本の渡来勢力』を著した宋潤奎氏、下関に新羅王朝があったとするのが『倭人と韓人』を著した上垣外憲一氏である。神功皇后が攻め込んだとする新羅というのが、朝鮮半島ではなく、岡山あるいは下関で勢威を誇っていた新羅王国であった可能性も、全くゼロとは言い切れないのだ。 ちなみに、塵輪は成仏しきれず巨大な牛鬼に変じたが、単にヤマト王権から敵対視されただけの存在だったとすれば、それは王権にとってまつろわぬ者だったに過ぎない。不運だったのは、もしかして塵輪の方だった…かもしれないのだ。
藤井勝彦