多くの日本人が意外と知らない「老後にいくらあれば安心なのか」ひとつの答え
資産形成に満足できるまで、人は働き続ける
先の数値は、一時点における各世代の貯蓄額の平均値である。これがすなわち各家計の生涯を通じた貯蓄の増減を表しているとは限らない。特に資産の多寡は生涯の給与の積み重ねでもある。 このため、現在の高齢世代と現役世代の世代間の違いを無視することはできない。現在70代以上の世代はバブル経済を経験した世代でもあるから、そもそもとしてその下の世代より裕福な傾向があるとも考えられる。 年齢による効果と世代による効果の違いを検証するため、60代世帯の長期的な純貯蓄額の分布の変化を取ったものが図表1-10である。 貯蓄額の分布は長期的に驚くほど安定している。60代の上位20%世帯の純貯蓄額は3000万円台半ばである。上位40%世帯は2000万円、下位40%世帯が1000万円、下位20%世帯が300万円程度の額となっており、いずれの年度においても、純貯蓄額はほぼ一定で推移している。 ここ数十年で、退職金の減少や中高年の賃金水準の低迷、年金の支給開始年齢の引き上げなど家計にとっては厳しい状況が続いている。にもかかわらず、多くの人の高齢期の資産水準はそれほど変わっていない。 これは、近年急速に進んでいる女性の労働市場への進出や高齢期の労働参加によって家計収入を増やし、年金の受給開始年齢の引き上げなどの負の影響を相殺しているからだと考えられる。 逆に言えば、経済状況が厳しくなれば、個々の家計は資産を維持するためにも働ける限りは働くという選択をするのである。家計経済と就業の意思決定は密接に関わりあっていて、近年の家計経済の変化が生涯現役の流れを形成しているものと考えられるのである。 こうしたなかで、世の中の多くの人が関心を持つのは、一体どの程度の資産を持てば高齢期に安心した暮らしができるかということである。 図表1-5で示した無職世帯の家計収支の差額をみる限り、70歳以降で見ると、70代前半で5.0万円の赤字、70代後半で3.3万円の赤字であり、たとえば90歳で死亡すると仮定したとしても、累計の赤字額はそこまで大きくはならない。 当然、高齢期の生活は人によって大きなばらつきがある。比較的早期に亡くなる人もいれば、高齢期に大きな病気にかかり要介護状態となってしまうことで、施設への長期にわたる入所が必須となる場合もある。こうした様々なリスクすべてに完全に対応することは現実的には不可能である。 しかし、高齢期に臨時的に必要となる支出も踏まえ、70歳を超える程度まで無理なく働いて残りの20年程度を働かずに過ごすと想定したときには、平均的な年金給付額に概ね1000万円程度の貯蓄があれば、統計上は現在の高齢世帯が送る平均的な暮らしが実現できると考えられる。 もちろん、60代時点で数千万円の貯蓄を有している人も少なくない。多額の資産があれば、老後の支出も高い水準を維持することができる。ただ、資産額が多い人は特に、死亡するまでにその貯蓄の全額を使い切れているかといえばおそらくそうではないのではないか。 先の図表にもある通り、70代以上世帯の貯蓄額は60代世帯の貯蓄額とあまり変わらない。統計データでみると、現実的には高齢期にはそこまで貯蓄は急激に減ってはいかないのだと推察される。最終的に各世帯が死亡時にどのくらいの資産を残しているのかについて信頼できる統計データは少ないが、多くの世帯がそれなりの資産を残して人生を終えるのだと考えられる。 こうしたデータから定年後の就労に関する行動メカニズムを推察すると、まず貯蓄に関する実際の基準は人によって様々なのだと考えられる。 リスク回避的な人、もともとの消費水準が高くて老後の消費水準も高いレベルを期待する人などは、老後に備えて多額の貯蓄を形成したいと考えるだろう。逆に、リスク愛好的な人、消費水準がそこまで高くない人などは、ある程度のレベルの貯蓄額で満足をする。 結果的には、個々の基準に即して、自身が十分に安心できる貯蓄水準に到達してから引退するという形で、高齢期の就労の意思決定がなされているのだと考えられる。 本来は「老後は2000万円の貯蓄が必要だ」などと言うことができればそれが最もわかりやすいが、厳密にいえば消費水準は人によって大きく異なり、貯蓄がこれだけあれば必ず大丈夫だという基準があるものではない。 実際の個人の行動をみていると、個々人の事情に応じて、これだけは貯めておきたいと考える漠然とした貯蓄水準があって、そこまでは働き続けるという考え方が実態に近い。 高齢期の就業率は近年大幅に上昇しているが、これは寿命の延伸や賃金、退職金、年金など個々人の経済環境が厳しくなっていくなかで、高齢期の資産形成のために定年後も長く働き続ける人が増加したのだと解釈することができるのである。 つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。
坂本 貴志(リクルートワークス研究所研究員・アナリスト)