48歳、独身、結婚願望0。映画が求めていた中年女性の自分探し。
『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』監督エレネ・ナヴェリアニにインタビュー
東ヨーロッパ、家父長制の強い文化が残る国ジョージアの小さな村で独身暮らしを愛する、48歳の女性エテロが、ある日、死を意識する出来事に遭遇したことをきっかけに、人生で初めて男性と肉体関係を持ち、さらなる自由と新しい人生を求める彼女の冒険が始まる。映画『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』(1月3日公開)は、ジョージアの新進女性作家タムタ・メラシュヴィリの大ヒット小説を原作に、ジョージア生まれのノンバイナリー、エレネ・ナヴェリアニが監督したもの。映画の主人公ではあまり見かけることがなかった、結婚をゴールに設定することなく、他人のために自分の好きを諦めない中年女性をスクリーンに映し出したエレネ・ナヴェリアニが、その理由について語ってくれた。
――結婚したいと心底思っていない48歳で一人で生きている女性が主人公の映画はあまり見たことがなかったため、とても力をもらえました。原作を読んだときに物語とキャラクターのどんな部分に惹かれ映画にしたいと思ったのでしょうか? 私も力を与えられたと感じて、それをほかの人にシェアすることが重要だと思ったんです。とても印象的で、感動的で、エテロの自由への決意を映画としてスクリーンに映し出すことが重要でした。彼女が住むこの小さな村では、人々は人生について大した考えを持っていないように見えます。哲学的に聞こえるかもしれませんが、この小説を読んで、小さな村で、ひとりの女性が、自分の人生や他人の人生までも大きく変えられることを悟りました。私が元気づけられたのは、彼女は他の女性たちの耳をかたむけるべき重要な声を伝えていたという点です。それは、私たちがあまり耳にすることのない声であり、年齢を重ねてもなお人生に愛を持ち続ける彼女のような人物をリスペクトする機会に恵まれていない人たちの声でもあります。彼女は欲望を持っていて、性的にオープンで活動的で、基本的に目立っていて、自由になりたいと自身の人生を模索している。だから、このような女性キャラクターの声は、私たちに欠けているものであり、スクリーンに欠けているものだと感じました。そして、彼女の身体とセクシュアリティの解放が組み合わさることで、観客と共有する意味がさらに深まったと思います。 ――あなたの作品に限らず、ジョージアの映画を観ていると、家父長制度や、結婚、出産を前提とした社会が今でも根強く残っていることが伝わります。現在はスイスを拠点にされていますが、大学生までジョージアで育って、それをプレッシャーとして感じていましたか? 私はとてもラッキーで、強い女性が周りにいる家庭で育ちました。だからいつも、自分の家族というミクロ社会の中で、自分のやりたいことをやりたいようにやっていました。もちろん、疎外感を感じることもありましたが、無意識のうちに抗うことはできたというか。私がただそこにいるために何かを言おうとすることが、革命的だったんです。つまり女性は男性の二の次、三の次という存在で、第一人者でもなければ、隣人でもなければ、同じレベルでもなかった。こうした男性優位社会は職業だけでなく人生の全ての側面で感じていましたし、わかってはいましたが、スイスに留学したときも、これまでと異なる居場所を見つけることはできませんでした。そして、それがジョージアの問題なのだとは言いきれないと実感しました。世界のどの地域でも、誰もがこの非常に強力な男性優位のシステムと闘っているのだと思います。このシステムは基本的に、女性やマイノリティを押しのけようとしているので。映画の世界でも、今自分がここにいることはさらに難しくなりつつあると感じますし、自分が何をしているのかを自分で理解することもとても難しいなと。それは人生においても同じで、社会の多くの要素が、「自分の居場所を持て」とか、「あまり大きな声を出すな」とか、「自分の居場所はどこか片隅にあるものだ」とか念押ししてくるので。ジョージアだけでなく、私が訪れた国々でも、残念ながらどこも似たり寄ったりだと思います。 ――理想とされる幸せ像の情報に囲まれて生きている私たちですが、本当の意味で自分が満たされるとはどういうことなんだろうと考えさせられました。エテロの場合、崖から落ちそうになることで、突然目覚めるわけですが、あなた自身は、自分の本当の欲求を知るうえで、どんな出来事がきっかけになりうると思いますか? 私の言葉、私の抵抗法は、私が既存のシステムに対してつくり出したものであり、自分の映画は、それを表現するツールです。そこでは、私だけが自由で、声を持ち、すべてを語ることができると信じています。それは、とても大切なことで、自分の特権を認識し理解していますが、もう一方で、それだけでは十分ではないとも感じています。というのも、日常生活で苦労している私の仲間や、クィアの人たち、他の女性たち、あるいは有色人種の人たちを見ていると、それだけでは物足りないと感じるので。私にとっては、この映画というツールや特権を得たことは素晴らしいことだけれど、それが私だけができる方法だとは思いません。私は、ほんの一部を担っているだけで、みんなが一緒に声を上げているのだとわかるとやりがいを感じます。理想主義的ですが、そう信じています。もし私が自由なら、みんなにも自由であってほしいし、そうしていくことで、その後どうやって前に進むかを話し合えるようになるのだと思います。