前代未聞の引退劇 天才と呼ばれた新井田豊は何を思い、世界王座を返上したのか…前編
世界王座を初奪取し、防衛戦を行わずにそのまま引退―。そんな前代未聞の行動を起こしたのが、元WBA世界ミニマム級王者の新井田豊(46)だ。タイトル獲得から約2か月後の2001年10月22日、卓越した身体能力に「天才」と形容された男は、突然、現役生活にピリオドを打った。数年後には現役復帰して再び王座を獲得し、7度の防衛に成功するのだが、ジムとのトラブルなど一切ない中、何を思い、リングを去ったのか。「後楽園ホールのヒーローたち」第16回は、新井田の当時の本音に迫った。(取材・構成・近藤英一)=敬称略= × × × × 横浜市内のジムは祝福ムード一色に染まっていた。2001年8月26日。前夜にWBA世界ミニマム級王者チャナ・ポーパオイン(タイ)に判定勝ちした新チャンピオン・新井田の一夜明け会見。今後のことなどを含め、喜びを口にした新井田だったが、言葉とは裏腹に重たい決断を下していた。報道陣がジムを後にしたのを確認すると、新井田は所属ジム会長の関光徳に歩み寄り、硬い表情で言った。 「これで引退します」 関は耳を疑った。信じられなかった。世界王者になることを夢に二人三脚で歩んできた。確かにその夢はかなえたが、チャンピオンとしてはまだまだこれからだ。だが、関は、まな弟子がただの気まぐれで言った言葉ではないことをすぐに確信した。その時の関の表情を、新井田は今でもはっきりと覚えている。 「会長は自分の気持ちを悟ったような表情だった。何も言わずに神妙な面持ちで聞いていました」 新井田を息子のようにかわいがる関にとって、この決断が翻意するとは思わなかった。そして、今後に起こるボクシング界の大騒動も予感できた。 初めて手にした世界王座を防衛戦も行わず返上、引退した選手など一人も存在しなかった。一度手にした世界王座は誰もが手放したくないのが本音だが、当時の新井田は、独特の価値観を持っていた。 「ボクシングを始めた当時から世界チャンピオンを目指してやっていた。だから、当時は世界を取ることがすべてだったんです。その先(防衛)は自分の中にはなかった。燃え尽き症候群ではないんですが、それに近かったです。当時の決断? 今があるからよかったと思うんですが…」 王座奪取から引退発表までの2か月間。ジムオーナーや関係者など多くの人から現役続行を説得されたが、気持ちは変わらなかった。現役世界王者の突然の引退にボクシング界は騒然となった。世界挑戦とセットとなる今後の興行権に関してもすべてが無駄になり、ジム関係者は周囲に頭を下げ回った。そして、会見など一切行わずに引退した。新井田は当時、他人を寄せ付けない空気を醸し出し、特に報道陣には本音を明かさない存在としても有名だった。試合が決まり調整に入ると、雑音が入ることを極端に嫌う。何とか本音を引き出そうと記者がジムを訪れ質問しても、返ってきた答えはこうだ。 「僕のことはほっといてください」 彗星(すいせい)のごとく現れ、彗星のごとく去って行ったが、有り余る才能に皆が引退を惜しんだ。それを一番感じていたのは関だった。新井田のポテンシャルに誰よりもほれ込んだ一人だったからだ。 「高校時代は部活とか真剣にスポーツはしていなかったんですが、やれば何でもできました。ボクシングは1990年代にテレビで流れる世界戦を見ていて、すごく好きでした。何となく、自分に向いていると思っていたし、やれば自信もあった」と高校2年の時に横浜市内の花形ジムでキャリアをスタートする。「当時はそこまで真面目に取り組んでいなくて、3か月ぐらいでやめたんです」。その後、自宅により近い鶴見の横浜光ジムの門をたたく。ここで初めて関と出会い、世界へ向けての第一歩を踏み出すことになる。入門初日、ミットを持った関に声をかけられ、パンチを打ち込んだ。元東洋フェザー級王者で5度の世界挑戦を経験した関がポツリとつぶやく。 「お前、いいな!」 関にはキラキラ輝くダイヤの原石に見えた。「練習が終わるとその足で翌朝からのロードワークの場所に連れて行かれ、集合場所を教えられました」。朝は陸上トラックで長距離を走り、その後に短距離ダッシュ、最後にシャドーとミット打ち。夕方からはジムワークと、常に関の目が光る中での練習だった。高校3年でプロデビューし3戦を終えると、2人でメキシコ修業に旅立ち、関が現役時代に対戦したジョー・メデルの指導を受ける。メデルはロープを背に絶妙なカウンターパンチで相手を倒すスタイルから「ロープ際の魔術師」といわれた名ボクサー。世界王座には最後まで手が届かなかったが、その実力は世界中のファンの誰もが認め、「無冠の帝王」とも形容された。新井田はここで日本では教わらないディフェンステクニックを身につける。「パーリング(相手のパンチを手ではじく技術)を主体とした懐が深い構え方なんです。すごく勉強になった」と、異国でディフェンスの基本を体と頭にたたき込み、帰国している。 回転の速いパンチに独特の身のこなしで相手のパンチをかわす。チャンスとみるや必ず攻めていくが、不用意なパンチを受け、ダウンもするのだから新井田の試合はスリリングだ。プロ15戦目で日本タイトルを獲得すると、初防衛戦後の2001年8月25日にチャナを下して無敗で世界王座を獲得。順風満帆のように見えたが、自ら戦いの場から姿を消した。ただ、ボクシング界には残った。所属ジムのトレーナーとなり、後進の指導に当たった。 第2の人生をスタートした新井田だったが、正直、毎日が不完全燃焼だった。 「すぐに自分が他人にボクシングを教えるのがうまくないことに気付きました。選手を担当して試合に勝たせなくてはいけない責任もある。トレーナーって、図太くなければできないんです。毎日が楽しくなかった」 それでも、自分で決めた道だからこそ我慢して日々を過ごした。トレーナーとなり、1年がたった2002年の年末。ジムの忘年会で関が声をかけてきた。 「終わったらちょっと話があるから残ってくれないか」 関はトレーナーになったまな弟子の心が読めていた。煮え切らない毎日を過ごしている新井田がふびんでならなかった。そして、この頃には現役に未練があることも見抜いていた。だが、自らの意思でベルトを返上してしまった新井田が、自分から復帰を言いせせるほど甘い世界ではない。関は用意周到にジムオーナーと話し合い、驚くべき考えを新井田にぶつけた。(続く) ◆新井田 豊(にいだ・ゆたか)1978年10月2日生まれ。神奈川県横浜市出身。96年に横浜光ジムからプロデビュー。2001年1月に日本ミニマム級王者となり、同年8月にWBA世界同級タイトルを獲得。その2か月後に突然、引退を表明するが、2003年7月に再起すると1年後に2度目の世界王座を獲得。7度の防衛に成功し、08年12月に引退。現在は横浜市営地下鉄 ブルーラインのセンター北駅から徒歩2分の場所にフィットネスジム「BODY DESIGN 新井田式」をオープン。究極のボディーづくりを実践している。プロ戦績は23勝(9KO)2敗3分け。ボクシングスタイルは右ボクサーファイター。
報知新聞社