ドラマ『天皇の料理番』のメニューを再現 料理人・秋山徳蔵の姿を追う
厳しい料理人の世界
舞台は再び華族会館。「あの時、わざとペテ公に案を言わせたんですよね?」と奥村チーフ。宇佐美は「ブイヨンで茹でるのは知らなかった」と打ち明ける。奥村が続ける。「これでみんなペテ公は特別だと思うようになりましたよ。僕もあいつは特別だと思いました」。 篤三は初めから特別ではなかった。16歳の同い年で結婚した妻・俊子が身ごもり、父親になろうとしていたそのころ(実際の2人が結婚したのは徳蔵26歳、俊子17歳の時)。皿洗いなどの下働きばかりさせられていた篤三の給料は一向に上がらない。家族を養わなければと気がはやる。「シェフになるのに何年かかるんですか!」。焦る気持ちを抑え切れなくなりながらも、鍋を洗い、フランス語を勉強し、人並み以上に努力した結果だった。 小川シェフに「料理人の世界は厳しいようですね。シェフの下積み時代はどんなだったのですか?」と聞いてみた。「ええ、19歳で箱根の『オーベルジュ・オーミラドー』に修行に出たのですが、最初の1年は皿洗いだけでなく、ギャルソンといって給仕もしました。午前4時から翌日の午前1時まで働き詰めでした」。 ただ働くだけでなく、自分に課題を課した。コップ一杯の水に一滴のレモン汁を入れ、入れていない水と飲み比べる。塩1グラムでも同じように飲み比べた。「味覚は天性のものもありますが、磨けます。自分の味覚のポジションを知るための訓練でした。そうすることで、お客さんの味覚に合わせて料理をお出しできるようになります」。
包丁は握るな。中途半端はするな
「辛かったですよ。辞めたくなって、公衆電話から父親に電話して弱音を吐く。料理人をしていた父親は、その弱音を受け入れてくれるのですが、『そうであれば、もう包丁は握るな。中途半端はするな』と言われました」。1年で残ったのは同期10人のうち3人だけという厳しい環境、2年で厨房を任され、オードブルセクションのシェフになったときには、同期は皆、辞めていた。 京都のフランス料理店に修行に出たあと、渡仏を決意した。「自分が作っているフランス料理がどういうものか知りたかったんですね」。ドラマの篤三は兄と父の助けで300円を得て渡仏したが、小川シェフは自分で土木工事などのアルバイトをして100万円を貯めた。帰りの飛行機のチケットも手にしていたが、渡仏後、それを破って捨てた。「チケットが手元にあるといつでも日本に帰れるでしょう。言葉も通じないし、自分に負けそうになりそうだったんです」。それは、料理人として生きていくことの決意だった。 渡仏した篤三は、見習いならという条件でフランス料理店に潜り込むが、やはり一向に生活できるだけの給料がもえらない。小川シェフの場合も変わらなかったようだ。「ノーギャラだ。見習いならいい」と。それでも得られる経験は大きかった。「一日に20時間も働いていれば、言葉は通じなくても、見れば分かることがあった」とシェフは言う。 修行先のレストランでは「日本人らしいものを作ってくれ」と言われた。そして、毎日、毎日、違う一品を作り続け、わずか一か月でオードブルのシェフを任されるようになった。最初は「日本人にフランス料理が作れるものか」というような雰囲気だったというが、これが実力主義というものだろう。それから、さらにフランスの地方にある三ツ星レストランなどで修行を積んだ。