破裂音、噴煙、飛び交う岩石…10年前の御嶽山噴火、その時何が 死者58人、行方不明者5人の災害で変わった人生
▽再噴火するかも…救助も決死の覚悟 山梨大地域防災・マネジメント研究センターで客員教授を務める南沢修さん(62)は当時、長野県危機管理防災課の課長補佐だった。土曜日で休んでいたところ職場に駆け付けた。まず情報収集に着手したものの、住民居住地が被災する大雨と違い、そもそも山頂に誰が何人くらいいるかが分からない。南沢さんは「全体像が見えない。情報が入ってこないのが一番きつかった」と振り返る。 長野県安曇野市の医師上條剛志さん(66)は噴火翌日、救助活動のため現地に入った。担ったのは、多数いる負傷者の治療の優先順位を判定する「トリアージ」。生存の見込みが低いか、死亡を意味する「黒タグ」を何人にも付けるつらい作業だった。 県内の病院に勤務し、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員でもあった。噴火翌日の午前6時半ごろ、山腹にあるロープウエーの駅に設けられた仮設救護所にいた。自衛隊、消防、長野県警の合同会議で「医師1人に付いてきてほしい」と要請された。しかし、いつまた噴火するか分からない。恐怖を押し殺し、参加を決めた。
午前7時40分、6合目から登山を開始した。登山道には粘土状となった火山灰が堆積していた。滑りやすく、何度も転倒し、体力を奪われた。 山頂近くに着くと、灰に埋まっている登山者が見つかった。体は冷たく、脈はない。黒タグを付ける。火山灰の中から腕だけが突き出ている人もいた。「この人も、黒タグ」。噴火災害の恐ろしさを痛感した。 山小屋には6人の生存者がいた。骨折などで全員が歩行困難だったが命に別条はなかった。緊急処置の必要はない「黄タグ」を付け、先を急いだ。 山頂の剣ケ峰には大勢の登山者が倒れていた。いつの間にか恐怖心はなくなっていたが、安全を危惧したDMAT側から「すぐに撤収するように」との指示が入る。「助けられる命は現場にある」と困惑したが、自衛隊のヘリコプターで下山した。感情で救助活動に混乱を生んではいけないと考えたからだ。 長野県警広報相談課の浅岡真管理官(52)は約3週間にわたり救助・捜索活動に従事した。当時は警備2課の課長補佐で、関東管区機動隊の長野中隊長を兼ねていた。