時代を生き抜いたニッポンのスポーツカー「フェアレディZ」
スポーツカー受難の時代に
かつてスポーツカーは若者の憧れだった。こう書いた時点で、もう昔語り感が拭えない。しかしこと新車に関する限り、スポーツカーが若者のものであったことはほとんどない。何故かを聞くまでもない。値段が高くて若者には買えなかったからだ。
若者は中古車でスポーツカーを買い、クルマへの愛と情熱を持て余し、何かしなくてはいられない衝動に突き動かされてモディファイを始める。常にクルマと関わっていたい気持ちが止められなかったのだ。そして大体の場合において、いじり壊す。それはそうだ。自動車メーカーのプロフェッショナル達が、考えに考え抜いてバランスをとりながら作り出した性能を、素人が簡単に向上できたら世話はない。 筆者は若い頃、ホンダディーラーで整備士をやっていたが、当時はアフターマーケットのモディファイパーツを持ち込むお客さんが多かったから、その取り付けをよくやった。特に二輪部門にいた時はもう、いじらないお客の方が珍しいくらいだった。 筆者はそういう部品の出来の酷さを目の当たりにして、改造部品が大嫌いになっていった。ただ、どんなに理には叶わなくても、あの何か部品を変えずにいられない衝動は、スポーツカーを買うこと、乗ることに密接につながっていたことを強く感じる。今の若い人たちはバカだと笑うだろうが、そういうバカが多かったからスポーツカーは売れたのだと思う。 バブルが始まり、若い人たちにまでお金が回り始めて、少しずつ世の中が変わって行った。証券会社では新卒の初ボーナスが100万円を越えたりした。社会人になって2か月でボーナス100万円はさすがに一部の話だが、多くの人が収入に関して楽天的になったのは事実だった。ユーノス・ロードスターはそんなタイミングでデビューしたから、日本で始めて若者が新車を買うスポーツカーになった。 バブルが終焉してからこちら、スポーツカーは長らく冬の時代になった。その間、各社のスポーツカーやスポーツモデルは次々と生産中止が発表されていった。途切れずに生産されてきたスポーツカーは、フェアレディZとロードスターだけである。フェアレディZには実は2年ほどのブランクがあるが、1952年にダットサン・フェアレディが登場して以来の伝統に比べれば、無視しうるブランクだと思う。