時代を生き抜いたニッポンのスポーツカー「フェアレディZ」
日産とプリンスの根深かった対立
フェアレディZは大変な時代を生き抜いて来た。その背景には、日産とプリンスの社内抗争がずっと通奏低音として響いていたのである。 日本の自動車メーカーの多くは、戦争に負けて飛行機を作れなくなったエンジニア達に支えられて技術的発展を遂げた。彼らの多くは旧帝大出のエリートである。世界的に見てもこうした航空機産業から転身したエンジニアは自動車の進歩に大きな貢献をしてきた。日本もその例に漏れなかったのだ。 プリンスは立川飛行機や中島飛行機出身の航空エンジニアが中核になって発足した会社だ。スバルや三菱は航空機会社の末裔だし、トヨタやホンダでも元航空エンジニアは大きな足跡を残している。 意外なことに、彼ら航空エンジニアにとって自動車のエンジンを作ることは難しかったらしい。航空の世界ではエンジンは途方もない進歩を遂げており、終戦後の自動車用エンジンとは技術的にとんでもない隔たりがあった。彼らが持てる技術の全てを注入したら、性能もすごいかもしれないが、価格もものすいごいことになる。それをどこまで手加減するか、それは戦争に勝つ為にひたすら高性能を目指せばいい航空機エンジンとは違う、民生用機械の難しさだった。
国内の他メーカーと比べると、プリンスは常に野心的で先進的なメカニズムを採用していた。自動車メーカーの実験室と呼ばれたあたりからもそのイメージは伝わるだろう。ところが、1966年に日産に吸収合併される。背景には通産省による自動車メーカー再編計画があったとされる。今では想像しにくいことだが、当時の日本の自動車産業はまだ欧米各国にくらべて著しい遅れをとっており、通産省は、貿易自由化で輸入車が入ってくると、日本のメーカーが潰れることを本気で心配していたのである。そのために四輪、二輪のメーカーをいくつかに統合再編して、輸入車と戦える体力をつけさせようと考えていた。 この特定産業振興臨時措置法案、通称「特振法案」は結局のところ廃案となったのだが、通産省は早くから自動車メーカー各社を訪ねて下交渉を開始しており、ホンダは国からのこの押し付けに激怒してむしろ四輪車への進出を早めた。 しかし、プリンスは株主の意向など諸般の事情もあって、この計画に沿って動いてしまったようなのである。そうして国策で無理やり合併した二つの企業の軋轢(あつれき)の歴史が始まる。「技術的にはこちらが上」というプライドを持つプリンス出身の技術者たちは、吸収合併であっても日産に容易に同化しようとしない。日産は日産で「吸収したのはこちら」という意識がある。