昭和100年へ 昭和の鉄拳から生まれた愛と涙の伏見工伝説 山口監督熱血指導 荒れたラグビー部 日本一の軌跡(前編)
1979(昭和54)年度の全国高校ラグビー大会に初出場し、翌80年度に初優勝を遂げた伏見工(現京都工学院)ラグビー部の活躍は多くの感動を生んだ。校内暴力の嵐が吹き荒れた昭和50年代、ひとりの高校教師がラグビーの力で学校を立て直し、7年で全国優勝に導いたストーリーはテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルにもなった。高校ラグビー界に残る伝説と今は-。(取材構成・月僧正弥) 1974(昭和49)年春、31歳の元日本代表FL山口良治は体育教師として京都市立伏見工高校に着任した。当時の校舎は窓ガラスが割れ、たばこの臭いが漂った。バイクが廊下を走り、教師への暴力は日常茶飯事。荒廃していた学校を立て直すため、決意した。 「生徒たちに誇りを持たせたい。そのためにラグビー部を強くする」 年が明けた75年、ラグビー部の監督に就任。だが、部員たちは山口を歓迎するどころか、反発した。練習には出てこない。練習試合をボイコットしたこともあった。 同年5月の京都府高校総体は無残な結果になった。相手は前年度の全国大会準優勝の花園。WTBで出場していた2年の内田謙一は「ずっと走り放しでした。一回もボールを触っていない。タックルどころか(相手に)触ることもできなかった。『早く終わらへんかな』とばかり考えていた」と振り返る。 0-112の大敗。試合後の部員たちのどこかしらけたような態度に山口のボルテージが上がった。「同じ高校生にこんな負け方をして悔しくないのか!」。 そのときだった。 「悔しいです。勝ちたいです」。主将の小畑道弘が叫んだ。その声に内田も気づいた。「そうなんや、と。自分もやっぱり悔しい、と。涙がいっぱい出てきた。周りのみんなも泣いていた」。 その気持ちを忘れないように-と、山口はひとりひとりに拳をふるった。令和の今では考えられない、殴る方も殴られる方も泣いている異様な光景だった。 そこから打倒・花園を合言葉に猛練習が始まった。基本は徹底した走り込みとタックルだった。そして翌76年6月5日、1年前と同じ京都市吉祥院運動公園で、同じ花園を相手に戦った京都府高校総体決勝で最初の伝説が生まれた。