「手術は計17回」産後生死をさまよった元病児の女性「目の前で亡くなる子を見てきたから虐待で命を落とすのは許せない」
30代に入って不妊治療を考え始め、自分の体について調べたときに、当時私と同じような状態で緊急手術を受けた赤ちゃんのほとんどは、子宮を取られていたことがわかったんです。担当してくれたのは男性医師だったですが、のちに「妊娠・出産ができる可能性を残してあげたかった」と話していました。 当時、生まれたばかりの赤ちゃんの子宮を温存する技術を持った医師はごくわずかしかいなかったそうです。私はたまたま緊急搬送されたときに宿直していた医師がその技術を持っていた。生きるか死ぬかの瀬戸際でさまざまな判断が難しい状況のなか、子宮を温存できる形に直し、また赤ちゃんの体に戻す、そんなリスクの高い手術をしてくれました。しかも命が助かった。生まれたときから、「自分はラッキーとしか言いようがない人生なんだ」と思いました。
ただ、どうしても残すのが難しかった内臓は除去されていて、たとえば腸などは普通の人の半分くらいしかありません。いろんな部位を形成し直してもらい、なんとか生きてきたという感じです。 ──入院生活のことは覚えていますか? 岩朝さん:よく覚えています。大学病院に入院しているのは重症の子ばかりで、みんな半年とか1年とか、長期にわたって入院していました。顔色を見るとなんとなくわかるんです。目に黄疸がある子は「肝臓系の病気かな」と思ったり、顔色が特に悪い子は「10歳まで生きられないんだろうな」と察してしまったり。
そんな子どもたちを医師や看護師さんは愛情たっぷりに包んでくれて。小児病棟はそれはもう、温かい世界でした。先が見えているからこその温かさというのでしょうか。周りの大人たちが1日1日を大事に、すごく優しく接してくれたことを覚えています。
■命を救ってくれた先生には「今でもおごってもらってる(笑)」 ── 岩朝さんが手術してもらったドクターとは今も交流はあるのですか? 岩朝さん:大学病院の医師はたいてい、何年かすると別の病院に転職されるのですが、私の担当医はずっと大学病院にいてくれました。「長期的にその子の経過を把握しているドクターがいないといけない。だから転職しなかった」と言っていました。今でもその先生とは交流していて、当時の病児たちと、表向きは「先生を囲む会」と称して先生にごちそうになる会(笑)を開催しているんですよ。