武田信玄は「家族を犠牲にした非情な武将」ではなく「家族思いの優しい父親だった」【イメチェン!シン・戦国武将像】
歴史上、知られている戦国武将像はイメージが固定されている。「あるゆる権威を否定した戦国の天才武将・織田信長」とか「独眼竜の異名を取った奥州の覇者・伊達政宗」などなど。しかし、最近の歴史研究などによって、武将のこうした1つのイメージが変わりつつある。これまでとは異なるイメージチェンジした新しい戦国武将像を追った。その第1回は武田信玄(たけだしんげん)。 武田信玄は、戦国最強の武田軍団を率いて戦った武将として知られるが、一方で「父親を駿河(するが/静岡県)に放逐し、嫡男を殺した非情・冷酷な武将」ともいわれてきた。ライバルの上杉謙信も、信玄に対して同様の批判しているほど。 確かに信玄は、最強の戦国武将として最大の評価を受けている。が、一方でクーデターによって父親・信虎(のぶとら)を駿河・今川家に追いやり、意見の対立から自分へのクーデターを企てたとして、嫡男・義信(のぶよし)を甲府・東光寺に幽閉し、後には殺してしまった(その死は、切腹・自殺・病死と諸説ある)家族に対しても非情で冷酷な武将という酷評もされる。 映画化され大河ドラマにもなった小説『天と地と』の原作者・海音寺潮五郎も、この作品を書く際に「非情な信玄を好きではなく対する謙信を描くことにした」と述べているほど、信玄嫌いの原因が信玄の非情さであったという。 本当に信玄は、非情で冷酷な男だったのか。「戦国時代とはそういう時代だ」との庇護(ひご)論もある。徳川家康も嫡男を殺し、伊達政宗は弟を手に掛けている。信長は、兄弟はじめ一族の多くを殺している。家を守る前に自分を守るのが戦国時代であるという。 実は信玄は、家族思い、子煩悩の優しいお父さんだった、という事実が指摘されている。嫡男・義信に対しても、幼少の頃に甲斐二之宮・美和神社に幼児用の馬の模型や幼児用の鎧兜を造って納めるなど「優しい父親の一面」を見せている。 特に娘たちには優しかったという。一例を挙げる。信玄には5人の娘がいた。長女・黄梅院(おうばいいん/こうばいいん/本名・不明)は信玄が23歳の時に正室・三条夫人との間に生まれた。天文23年(1554)、政略結婚の一環で小田原・北条氏康(ほうじょううじやす)の後継者・氏政(うじまさ)に嫁いだ。僅か12歳での輿入れであった。この時の輿入れは家臣1万3千人に護衛させた「末代にもあるまじき…」と喧伝されたほどの盛大な婚儀とした。 その後、黄梅院が身籠もると信玄はその度に、富士山の北麓にある御室浅間神社に安産祈願をしている。文禄9年(1566)5月の願文には「母子ともにつつがなく出産できるように祈る。望みが叶うなら、僧百人を集めて法華経を読誦し、神馬を奉納する」と書いている。黄梅院は、氏政の男児4人を生んだが、三国同盟(甲斐・武田、駿河・今川、相模・北条)が破綻した永禄11年(1568)の暮れ、甲斐に送り返された。その半年後に黄梅院は26歳で死亡した。 信玄の悲しみと嘆きは尋常のものではなかった、という。黄梅院のケースは優しいお父さん・信玄の実像の一端ではあるが…。 なお、信玄死後のことであるが、5女・菊姫は天正7年(1579)10月、謙信の養子で後継者の景勝(かげかつ)と結婚している。武田の血が上杉家に遺されたことになる。
江宮 隆之