大河で「岸谷五朗」演じる紫式部の父は出世できない哀しい文人 学力より血統を重んじた平安社会で笑われた「博士の姿」とは
大河ドラマ『光る君へ』で紫式部が注目されているが、紫式部の父・藤原為時も血筋の壁に出世を阻まれた一人。平安文学研究者・山本淳子氏の著書『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 【写真】紫式部の絵をもっと見る * * * ■平安社会は非・学歴主義 京都は平安神宮の近くにある藤井有鄰館(ふじいゆうりんかん)は、驚きの美術館だ。中国の美術品や遺物の、それも目をみはるようなコレクションが、全くさりげなく並べられている。中でも特に息をのむのが、「科挙(かきょ)カンニング下着」である。一見ただの白い衣だが、よく見るとルーペがなければ読めないほど細かい字で、びっしりと『論語』など四書五経(ししょごきょう)が記されているのだ。 中国の官界への登竜門「科挙」は、厳正な試験による人材登用制度だった。合格するのに十年以上の歳月がかかったという例も珍しくない。そのため、合格したい一心からこうしたカンニンググッズを作った輩も、中にはいたのである。科挙には、不正防止のため牢獄のような個室での受験が課せられる。その個室にこのカンニング下着をつけて入り、試験に臨んだというわけだ。それにしても、実際には役に立ったのだろうか。背中の真ん中に書いた一節などは、上衣も下着も脱がなくては見られなかっただろうに。 科挙の制度はなぜ作られたのか。それはもちろん、有能な人材を抜擢するためだ。無能な者が、賄賂や縁故だけで高い地位に就くことを阻止するためだ。
日本は、官僚制度を中国のそれに倣った。だが科挙は取り入れなかった。逆に日本は、まさに「親の七光り」ともいえるような制度を敷いた。その名も「蔭位(おんい)の制」。貴族の親を持つ子が親の位に応じて優遇される制度である。学力より血統。それが当時の日本の考え方だった。藤原道長の息子の頼通(よりみち)などは、蔭位の典型といえる。十二歳で元服(げんぷく)し、即座に五位の位を得て貴族となった。三年後には十五歳で三位(さんみ)に昇り、公卿(くぎょう)の仲間入りをした。この年で、現在でいう内閣閣僚の地位に就いたのだ。その後、彼は摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を五十年以上務める。 日本の朝廷にも、人材登用のための制度はあり、それが大学だった。人気が集中したのは、中国の歴史と文学を学ぶ「文章道(もんじょうどう)」だ。朝廷の文書はすべて漢文で記されており、漢学が官人として必須の知識だったからだ。だが高位の貴族のお坊ちゃまは、勉学に励まずとも親の縁故で出世できる。いきおい、大学で学ぶのはコネのない貧乏人ばかりとなった。「迫りたる大学の衆」。人々は大学の学生をこう呼んだ。「貧乏学生」ということだ。こうした非・学歴社会のなか、大学出身で大臣に昇った人物といえば、せいぜい菅原道真(すがわらのみちざね)が右大臣になった特例辺りしか見当たらない。