史上初「民間船を撃沈せよ!」海上自衛隊への出動命令 潜水艦まで出た“災害派遣”その顛末は
海上自衛隊による実弾射撃がスタート
最初の事故から2週間以上が経過した11月26日。最終調整ののちに前出した護衛艦らは燃える「第十雄洋丸」目指して横須賀を出港しました。27日に現場に到着。そこでは時折火柱を上げて燃え盛る「第十雄洋丸」がゆっくりと漂流し、その周りを海上保安庁の巡視船が監視しています。海上自衛隊のP-2Jと護衛艦「はるな」から飛び立ったHSS-2対潜ヘリコプターが状況調査に加わり、やがて艦砲射撃の準備が整いました。 まず、「第十雄洋丸」の右舷側に4隻の護衛艦が単縦陣(各艦が縦一列に並ぶ陣形)を組み、合計9門の5インチ(127mm)砲で一斉に射撃を実施。合計36発の砲弾は狙い違わず右舷外板に命中し大きな火柱が上がりました。 艦隊は次に左舷側へと移動、同じく36発を巨大なタンカーへ撃ち込み、計画どおり大爆発を起こすことに成功しました。その火柱は100mの高さにのぼり、黒煙は2500mにまで達したといいます。 翌朝、新たな攻撃が行われます。まず4機のP-2Jが高度1500mから急降下し、127mm対潜ロケット弾12発を発射。ロケット弾は甲板に突き刺さり、またも大爆発が起こります。次に、対潜爆弾16発を投下、これにより甲板に大きな穴をあけることに成功し、火災は一層激しさを増しました。 しかし、ここまで攻撃を受けても「第十雄洋丸」は沈む気配を見せません。 そこで今度は喫水線下に攻撃を加えるべく潜水艦「なるしお」が登場。Mk.37魚雷の発射準備に入ります。この魚雷はホーミング(音響探知)能力を持っていましたが、動力を使用せずただ漂流する「第十雄洋丸」に対しては、その誘導機能を活かすことができないため、「目標に対して発射する」という単純な方法で4発射出しました。
「不沈艦」相手に大苦戦! やがて訪れるその「時」
魚雷攻撃の終了後、3度目の艦砲射撃が行われ、さらなる大火災を起こすものの、「第十雄洋丸」は炎上しながらその姿を海面上に保ち続けます。ゆえに、「これは不沈艦なのでは?」と不安になる隊員もいたようで、自衛艦隊司令部も増援として呉で待機していた潜水艦「はるしお」に出動命令を出しました。 しかし、ようやくその「時」は来ました。潜水艦「はるしお」が呉を出港してすぐ、「第十雄洋丸」は数回の大爆発を起こし、後部甲板が沈み始めたのです。海中にいた「なるしお」も浮上し、すべての船がその様子を、息を飲んで見守りました。次々とタンクが爆発し、その火柱は300mを超えます。そして「第十雄洋丸」は、船首を天にかざすように屹立すると、大渦を発生させながら海底へとその姿を消していきました。 11月28日18時47分、衝突事故の発生から20日。ついに「第十雄洋丸」は、沈没したのです。 世界屈指の過密航路として有名な東京湾・浦賀水道。行き交う船の多さから「海の銀座」と形容されることの多いこの海域で、大事故を二度と起こさないよう、海上保安庁はその後、羽田航空基地内に特殊救難隊を発足させたほか、消防船や消防艇、えい航能力に優れた巡視船の整備を進めました。 また事件から約2年半後の1977(昭和52)年2月には、横浜市中区に「海の交通管制室」といえる東京湾海上交通センターが開設され、船舶交通の安全性及び効率性を向上させています。 その後、この種の海上交通センターは名古屋港、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海(備讃瀬戸と来島海峡)、関門海峡の6か所にも設置され、船舶の往来を日夜見守り続けています。
柘植優介(乗りものライター)