「暇があれば酒を飲み、ゲームばかりしている人」は「不道徳」だといえるか…哲学者ジョン・スチュアート・ミルの答え
モラリティとプルーデンス
このモラリティ(道徳)とプルーデンス(自愛の思慮)という区別は、実はミルの自由主義の発想の根幹にある重要なものです。 逆に、例えばカントのように自分に対する義務と他人に対する義務という古典的な区別をする人は、プルーデンスという領域を特別に作らずに、両方ともモラリティの領域と考えているように思います。ですので、例えばカントは自殺をしない道徳的義務や勤勉である道徳的義務があると言います。それらを法的に禁止したり強制したりできるかはさておき、約束を守る義務などの他人に対する道徳的義務と同列に考えていたように思います。酒を飲んでゲームばかりしているサトシは勤勉の道徳的義務に反しているということです。 それに対して、ミルはサトシは愚か者かもしれないが道徳的義務に反してはいないと言います。 「個人的な欠点は、本来、不道徳的なものではない。個人的な欠点は、たとえどんなに極端なものであっても、邪悪なものにはならない。 個人的な欠点は、その人の愚かしさ、人間としての尊厳や自尊心の欠如を多少なりとも証明するものではある。しかし、それが道徳的な非難の対象となるのは、他人のために自分に関して注意すべきことを怠ったという意味での、他人に対する義務の不履行があった場合に限られる。」(191頁) これは例えば、サトシの自堕落な生活が単に愚かだという非難だけでなく道徳的非難の対象にもなるのは、サトシが酒を飲んでゲームばかりしすぎて子どもの扶養義務が十分に果たせないというような、他人への義務が果たせないときに限られるということです。サトシは酒を飲んでゲームばかりして時間を無駄にしているだけなら道徳的な意味での悪人ではないが、それによって子どもの扶養義務を果たさないなら悪人になるということです。ミルはさらに続けてこう言います。 「自分自身に対する義務と呼ばれるものは、それがたまたま同時に他人に対する義務になっている場合を除けば、社会的に義務づけられたものではない。自分自身に対する義務という言葉は、ただ単に思慮分別をもつことばかりでなく、自分を大事にすること、そして自分を成長させることを意味するものなのだ。そして、いずれにせよ、それは他人に対して責任を負うものではない。なぜなら、そういうことについて個人に責任を負わせても、それはけっして人類のためにならないからである。」(191~192頁) サトシは自分を大事にすべきだが、他人に危害を与えているのでない限り、強制的にゲーム以外のことをさせたり、刑罰を与えたりすることは適切ではない、ということです。このように、ミルは自堕落な生き方は愚かではあっても不道徳ではない、プルーデンスの問題ではあってもモラリティの問題ではない、と主張して、そう考えた方が人類の幸福のために役に立つのだ、と言うのです。 この点、ちょっとくどいぐらいに説明しましたが、ミルの自由主義の根本には、このように法や道徳が入ることのできない私的な領域を確立するという考え方があります。ミルの考えでは、モラリティの領域は規制の対象になるが、プルーデンスの領域は規制せずに自由にしておくべきなのです。 次回記事『悪質な誹謗中傷で傷つく人がいたとしても、ある程度までは「許容したほうがいい」といえるワケ』に続く
児玉 聡(京都大学大学院文学研究科 准教授)