「暇があれば酒を飲み、ゲームばかりしている人」は「不道徳」だといえるか…哲学者ジョン・スチュアート・ミルの答え
自堕落な生き方は不道徳か
例えば、三度の飯よりもゲームが好きなサトシは、仕事や子育てに影響を与えない限りで、暇なときはずっと酒を飲みながらオンラインゲームをして時間を浪費しているとしましょう。サトシは他人に危害を加えていないので、厳密に言えば不道徳なことをしていないし、そのような生活をしているからという理由で警察に捕まることもないでしょう。しかし、周りの人、例えばサトシの友人のヒトシは、サトシのことを人生を無駄にしている愚かな人間だと思うかもしれません。この点について、ミルは次のように述べています。 「そういう〔サトシのような〕人はかなり愚かであり、言ってしまえば(語弊があるかもしれないが)かなり低劣で俗悪である。それを露骨に示す人は、危害を加えられてもかまわないことにはならないが、かならず人に嫌われるし、極端な場合には軽蔑されるのが当然だ。普通の資質をちゃんとそなえた人なら、こういう感情を抱かずにはいられまい。」(187~188頁) つまり、自堕落な人生を送っているサトシは愚か者なので、それを理由にヒトシに嫌われても仕方ないとミルは言うのです。ここでミルは、道徳的な不正と、愚かさを区別しているように思います。これは英語ではモラリティ(morality)とプルーデンス(prudence)の区別です。プルーデンスというのは「自愛の思慮」とか「分別」とか「賢慮」などと訳されることがありますが、長い目で見て自分の利益に適ったことをしている、ということです。 もちろん、ヒトシがサトシの話をよく聞くと、実はサトシはヒトシと一緒にeスポーツで有名になることを目指して頑張っていることがわかった、ということであれば、サトシはむしろ自分の長期的な利益を考えて行動していることになり、ヒトシは別の評価をするでしょう。 これとは対照的に、モラリティが問題になるのは、他人の利益を尊重しているかどうかが問われる場合です。他者危害原則においてはこのモラリティが問題になり、道徳的に不正な行為は規制の対象になります。しかし、自分の利害にしか関わらないこと、すなわちプルーデンスの領域に関しては、助言や説得はしても規制はしないというのがミルの立場です。 ですから、自分の利害にしか関わらないこと、例えば先の例でサトシが暇なときにはひたすら酒を飲んでゲームばかりしているというような行為は、道徳的には不正ではないから規制の対象にはならないのですが、そうは言っても、本人の長期的な利益を考えた場合、それは賢明でない行為、愚かな行為であるという評価はできるわけです。これがプルーデンスの領域だということです。 ミルは他人に軽蔑されたり嫌われたりしてもおかしくないタイプの人として、「軽薄、強情、虚栄心をあらわにする人――節度のある生活ができない人――有害なことに溺れて自分が抑制できない人――人間的な知性や感性の喜びを犠牲にして動物的な快楽を追求する人」(189頁)を挙げています。 そして、ミルは次のように述べます。 「人を害するような行動をするわけではないものの、人から馬鹿だとか低級だと思われたり、感じられてしまう行動をとる人がいる。人からそんなふうに思われるのは、本人にとっても避けたいことだろう。したがって、「人から馬鹿にされるし、とにかく自分にとって不愉快な結果しか招かないよ」と、あらかじめ警告してあげるのは本人のためになる。たしかに、現在の一般通念ではこうした親切さはやや失礼にあたるが、それがもっと自由にできるようになればよいのにと思う。間違っていると思われることを指摘してあげても、不作法だとか僭越だとか言われないようになればよいのにと思うのである。」(188頁) このようにミルは、人々がもっとお節介焼きになる方がよいと考えていたようです。そこで、愚かなことをしている人には、「もしもしあなた、あなたの生き方は他人に危害を加えているわけではありませんが賢明ではない生き方ですよ」という注意ぐらいはどんどんしてよいのだ、と考えていたと思われます。ただし、そのような生き方を法や世論の強制力を用いて禁止するのは許されません。各人は愚行権を持っているからです。 また、ミルはこのように助言や説得を試みることは歓迎しますが、だからといって愚かな人や低俗な人とずっと付き合う義務があるとまでは考えていません。 「われわれはまた、人に対する否定的な意見を抱き、そしてそれにもとづいて、いろいろな形で行動をする権利がある。ただし、それは相手の個性を抑えつける形ではなく、自分の個性を働かせるような形でなければならない。たとえば、その人と無理に交際しなくてもよい。交際を避ける権利がある(ただし、それをことさらに誇示してはならない)。交際したい相手を自分で選ぶ権利があるからだ。」(188~189頁) このような形で、サトシが暇な時間は酒を飲んでゲームばかりしている自堕落な人間なら、そのような生き方を禁止されることはないですが、ヒトシや周りの人は離れていってしまうことがある、ということです。これも世論による制裁の一種と見なせそうですが、ミル自身はこのような処罰は、他人に危害を与えた場合の処罰とは異なり、「その人の欠点それ自体の自然な帰結、いわばその人がみずから招いた結果にすぎない」(189頁)と述べています。 自堕落な生き方は不道徳ではないから法や世論によって罰してはならない。しかし、周りの人が忠告することは歓迎されるし、それを聞き入れない場合は離れていってよい。これがミルの自由主義の基本的な発想です。