ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第3回 行為を「きちんと」やること その1 )
行為しないものは身体ではない
南:残念だなと思ったのは、ハイデガーには身体論をやって欲しかった。行為を具体的に担うのは身体でしょう? そしてその身体は媒体、メディアではないですか? それも最も根本的な。そのメディアとしての身体について、あのひとの論理で説明してもらったものが残っていたらよかったなと。 轟:いや、意外とあるんですよ。たとえば『存在と時間』における「語り」、すなわち「レーデ“Rede”」。彼の言う「語り」は人間が語るのでないんです。まず「世界」が語る。つまり「世界が現れる」ということ自体が「語り」なんです。 要するに、人間は「世界内」、世界的なものだから、「語り」は必然的にある物理的な形を取らざるを得ないということです。 南:そうすると、『存在と時間』の中の「語り」の中で身体に言及しているのですね? 轟:「身体」という言葉は用いていませんが、そう読めます。 南:直接、身体という言葉が出てきて、それについて論じている部分はありますか? 轟:それもあります。この本(『ハイデガーの哲学』)では書きませんでしたが、私の研究書、『存在と共同』には書きました。ナチズムに傾倒していた時代のものには身体に関する言及があるんです。簡単に言うと、われわれの身体というものは単なる「もの」ではない。つまり物理的な物体ではない。身体も、結局は何らかの仕事であったり、運動であったりと、「存在」が基盤になっているのだと。 簡単に私なりにまとめると、身体は「存在」のある種の共鳴板みたいな感じです。だから「存在」も宙に浮いているのではなく、身体を介して表現されざるを得ないということになる。 南:それは要するに、行為の言い換えだと思うんです。行為しないものは身体ではないということですから。「尽十方界真実人体(じん じっぽうかい しんじつ にんたい)」という言葉があるのですが、「尽」、すなわちことごとくが「十方界」、全宇宙とか全世界ですね、そして「真実」とあってその下に「人体」が付いている。しかしこの「人体」は、どう考えても物体ではない。あるいは物体がこっちにあって、もう一方に世界があって、それが気合一発で合体するみたいな話ではなさそうなんです。 そうではなくて、行為というものがまずあって、その行為が世界と自己とを立ち上げる、という思想なんだと思います。だからその行為の担い手としての身体について「真実」と言っているのはその関係性のことなのかなと。今、ハイデガーについておっしゃった「反響」、まさにその反響を担うものとしての身体みたいな話で書いてある。 轟:これは私の表現ですが、世界が生起する時空間は宙に浮いているわけではなく、人間が何かを受け止める、すなわち行為によって担われる。だから人間が行為をするから存在が明かされることもあるけれど、逆に存在が生起するからこそ人間の行為があるとも言える。 南:どっちかに片寄っちゃ駄目ですよね。 轟:どっちかに片寄っちゃ駄目です。だから「ダーザイン“Dasein”」も、もう最初から身体なんです。そのようにして西洋哲学の理性中心主義を否定してるんです。 南:ということは、現存在は、きわめて身体性の高いものだと考えてよい? 轟:身体性の高いものです。もともとそれに対置されていたのが西洋の、理性によって実体・本質を捉えるという考え方ですから。 要するに、身体論として直接的な形では出さないで、職人の仕事などを契機として現れるものとして身体を語るというのがハイデガーの基本的なスタンスなんです。 南:そうすると、たしかに身体性に関しても、むしろすごく注目している感じがしますよね。普通の西洋哲学者よりもずっと。 轟:「存在」をだれが知り、担っているのかというと、ハイデガーは職人とか、農夫とかが担っていると言います。絶対に知識人ではない。 南:『スッタニパータ』の、「耕すから農夫である」というのと一緒なんですね。 【つづきの「第3回 行為を「きちんと」やること その2」もお楽しみください! 】 *
轟 孝夫(防衛大学校教授)/南 直哉