「虚しい気持ちですわ…」日本の原爆開発に動員された15歳 炎天下に見た希望、今も焼き付く戦争の絶望 #戦争の記憶
今もうなされる 夢の中では「戦争」
秀忠さんはその後、結婚。2人の娘を育て上げ、今も畑で野菜作りに精を出している。ただ、79年前に棒で打たれた右手の甲には今でも炎症を抑える湿布が貼られている。痛みが治まらず、夜、熟睡したことはあまりないという。そして、痛みが激しい夜は戦争の夢を見る。うなされて見た夢の中には、秀忠さんが、異国の地で亡くなった日本兵の遺骨を集めて回るものもあった。多くの日本人が、戦争で命を奪われ、人生を狂わされた。この無念は決して消えるものではない。秀忠さんの脳裏には戦争当時のことが、今も強烈に焼き付いている。 「遺骨の慟哭聞こえるようですよ本当に、みんな一人一人の人生があったはずなのになって」
取材を終えて
元々、日本の原爆開発について取材を進めていました。日本とアメリカでは予算も人手も大きな差があり、着実に前進するアメリカに対し、日本は「本気で開発する気があったのか疑いたくなる」と専門家が指摘するほど遅々として進まなかったことが分かりました。 その一方で、当時中学生の秀忠さんたちは懸命に原爆の原料となるウラン鉱の採掘作業にあたることになりますが、必要とされるウランの量を確保することはできませんでした。日本の窮地を逆転させようという一大事業のはずなのに、計画通りに進まず、中枢と現場がちぐはぐな状況だったことが伺えました。 取材の中で、吉田秀忠さんに「学校を辞めなかったら?」と聞いた時の表情と声が忘れられません。 笑っているようで、寂しげでもあり、声がひと際大きくなりました。その悔しさを、どう表せばいいのか、誰にぶつければ良いのか、ずっと分からないまま 79 年が過ぎた…と思うと、秀忠さんをはじめ多くの人たちの人生を狂わせた戦争というものの本質が垣間見えたようでした。 ガダルカナル島で亡くなった秀忠さんの従兄は教員を目指していたといいます。私も大学で教育学部に入り、教員を目指していたので、自分と同じ将来を見据えていた若者が戦争で命を落としたことを知った時は、暴力的に人生を奪われていってしまう社会に恐怖を感じました。実は、インタビューの最後に秀忠さんに「日本はもう戦争はしないでしょうか?」と聞きました。秀忠さんは険しい表情をして「非常に心配です」と答えました。 軍事力を高めていく中国に対し、いつか日本も戦争に巻き込まれてしまうのではと、不安を抱いていました。そうならないよう、今を生きる私たちには、戦争がもたらすものを学び、次の世代に平和な世界を受け継げるよう、社会にコミットしていく責任があると感じています。 ※この記事は、福島中央テレビと Yahoo!ニュースによる共同連携企画です
福島中央テレビ