「虚しい気持ちですわ…」日本の原爆開発に動員された15歳 炎天下に見た希望、今も焼き付く戦争の絶望 #戦争の記憶
少年たちも動員…棒で殴打されることも
1945年4月から、15歳になった秀忠さんを含む約50人が軍需関連の作業に動員されることになった。動員されたのは隣町にある石川山。そこでは、何らかの鉱物を掘り出す作業が行われていた。ツルハシで山の斜面を崩して、岩を砕き、近くの石置き場までモッコを棒につるして、2人で運ぶ。秀忠さんは、石をモッコで運ぶ作業にあたったが、何のための作業なのか見当が付かなかったという。現場では、軍人の幹部らしき人物も頻繁に出入りしていた。ぐずぐずしていると、棒でぶたれることもあった。 「中学生2人1組になって石を運ぶんだけど、2人の力ではびくともしない石があって、時間がかかってると、棒で手の甲を叩かれた。それが腱にあたって、ひどく痛くて…」。
明かされた秘密 採掘していたのは「原爆の原料」
5月ごろ、軍人の幹部らしき人物が、少年たちを集め、目の前に掘り出している鉱石の破片を掲げた。その時のことを秀忠さんは昨日のことのように覚えている。 「内緒の話だけども、ここで掘っているもので、大したものできんだぞと、一生懸命やってくれなって。マッチ箱一つの大きさでそれを高いところから落とせばデカい都市だってやっつけることできんだって」。 秀忠さんたちが採掘していたのは微量のウランが含まれるペグマタイトという岩石だった。後に分かることだが、1943年から日本軍は理化学研究所に依頼し、原子爆弾の開発に着手していた。その原爆の原料となるウランの確保のため、秀忠さんたち中学生も採掘場に動員されていたのだ。戦争で父や従兄を奪われ、農作業も勉強も満足にすることができなかった秀忠さんは、大きな期待を含まらせた。原爆開発には膨大な量のペグマタイトが必要だったが、秀忠さんは毎日朝8時から夕方4時まで、炎天下に空腹で腹を鳴らしながらも懸命に作業に従事したという。 「そういうのできるのは大したもんだなって、いや~すごく期待だけはしていたんですわ。人類の罪なるものができるなんてそんな罪悪感なんて全然持っていませんでした。神国日本は負けたことはねぇそれを信じていたんです。私の父親はすでに戦死して母子家庭だったもんだから余計そういう気持ちが強かったんですね」。