「虚しい気持ちですわ…」日本の原爆開発に動員された15歳 炎天下に見た希望、今も焼き付く戦争の絶望 #戦争の記憶
世に知られなかった原爆開発 戦争に敗れ、がく然
しかし、日本の原爆開発は、ウラン分離や濃縮など核開発における基礎的な段階で立ち止まっていた。そして、必要とされるウランの確保には長い時間がかかるとされた。さらに、予算の問題もあった。石川町には、採掘した鉱石が集められ選別される工場の土台の石垣や貯水槽の部分が残っている。貯水槽の壁を支えていたのは鉄筋とは程遠い、針金状のものだ。技術も資材も不足していた日本の原爆開発の実情が、当時、世に知られることはなかった。 戦況が悪化する中、石川山にも米軍の戦闘機が現れるようになった。採掘場は森や林など遮るものがなく、走って近くの雑木林などに逃げるしかなかった。近くの民家が機銃攻撃を受け火事になったこともあり、肩を撃たれた人もいた。秀忠さんたちはそういう恐怖も抱えながら作業にあたった。しかし、その苦労が報われることはなかった。8月6日、9日に広島と長崎に原子爆弾が投下され、15日に日本は降伏した。その日も、秀忠さんたちは採掘作業に当たっていた。敗戦の報せを受けた秀忠さんはがく然としたという。 「結果から言えば虚しい作業に…奉仕させられたということだけですね、虚しい気持ちですわ。石川山であんなことやって本当にな~バカみたいなこと骨折って一生懸命やってたんだなってお国のためだと思ってそういう思いだけでした」。
家族のために中退 閉ざした将来の夢
降伏後、日本には食べるものも少なく、極限の貧しさの中にあった。秀忠さんは農業に専念し家族の食べるものを確保するため、中学を中退することになった。英語の教師が2回も家まで足を運んでくれて、母親を説得しようとした。しかし、母親は首を縦に振らなかった。教師は秀忠さんに対し、「敗戦国になったとはいえ、必ず役に立つ時がくるんだから卒業証書だけはとっておいた方がいい」と常々言ってくれたという。秀忠さんはそのことを今でも嬉しそうに、そして寂しそうに話してくれた。 「あの時、学校を辞めなければ良かったなと思います。少しは今とは違った生き方になったかもしれないって、そんなこと考えます。学校を辞めなかったら鉄道員に、蒸気機関車の運転士になりたかった…。」