原爆が焼きつけた物理学の「栄光」 オッペンハイマーのマンハッタン計画とアトミックパワー
核分裂
キュリーの娘イレーヌも夫ジョリオとともに放射性元素の探究を続け、人工的に放射性元素を作ることに成功した。こうして元素変換の反応が化学反応式のように書かれるようになっていった。 当時は、加速器ではなく自然放射線を用いて核反応を研究していた。フェルミは電気的な反発力を避けることのできる中性子によって核を照射することに着目し、パラフィンの中で減速された中性子は標的の核によく吸収されることを発見していた。こうした速度の小さい中性子を用いた核反応の研究の中で、ウランの中性子を吸収して核が真っ二つに分裂する現象が発見された。 1938年秋、ドイツのオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンから始まり、ナチスドイツから逃げてきたオーストリア生まれのリーゼ・マイトナーとオットー・フリッシュ、その他にイタリアやイギリスでもすぐに追試された。 この1つの反応が20世紀を揺るがすことになったのは、核分裂の際に中性子が2~3個放出されるので、これらがまた核分裂を引き起こすという、連鎖反応につながるからである。 連鎖的核分裂を爆弾に使えるかもしれないというアイデアが瞬く間に全世界を駆けめぐった。
マンハッタン計画
解放的な1920年代のヨーロッパは、29年、ウォール街の株の大暴落から始まる世界大恐慌で激動期に入った。 生活破綻の不満を政治的に組織する過激グループが台頭し、左右対立の様相が深まった。イタリアでのファシストの台頭、ドイツでのナチスによる政権獲得(33年)、スペインでの内戦勃発(36年)、ヒットラーのポーランド侵攻(39年)を経て、ヨーロッパは戦争状態に入っていった。 ユダヤ系の多くの物理学者もイギリス、アメリカに亡命し、このことは戦後のアメリカにおける物理学隆盛の基礎となった。 アメリカに亡命したフェルミは連鎖反応の実現に取り組み、シカゴ大学のフットボール場観客席の下で制御された原子炉を使いそれを実現したのは、42年12月のことだった。 この頃すでに、オッペンハイマーは原爆製造に向けてアメリカ中の物理学者を糾合した、マンハッタン計画の中心にいた。ロスアラモスの台地で、全米から集められた物理学者や技術者にロバート・ザーバーが原爆の物理の5回の連続講義を始めたのは、43年4月のことであった。 原料と爆発装置の2つの課題があった。 原料は、天然のウラニウムには1パーセントしか含まれていないアイソトープ、ウラン235を濃縮せねばならず、各地の研究所や工場で多くの人員を動員して行われた。原料には次いで新たに発見されたプルトニウム239が加わり、これは加速器や原子炉で人工的に製造された。 最低どれだけの原料があれば爆発にいたるのかの推定は難しかった。特に、原料の精錬は遅々として進まず、特にウラニウムのほうは貴重なものだから実験で浪費することもできず、高度な理論的考察が要求された。