元ひめゆり学徒隊員・与那覇百子さん 戦後は歴史を風化させてはならぬ、語り部として一生を捧げる 平和を伝えるために何ができるのか?
【ドクター和のニッポン臨終図巻】 沖縄が大好きです。毎年必ず遊びに行きますが、毎回課していることがあります。それは、戦争の跡地に必ず立ち寄ること。 中でも一番通っているのが、本島南部にある「ひめゆり平和祈念資料館」です。戦争末期、日本は圧倒的に兵力が不足していきました。そのため沖縄県民――中等学校や師範学校の子供たちまでも動員がかけられていきます。男子だけではありません。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校も生徒と教師の計240人が看護要員として動員されました。彼女たちこそが、「ひめゆり学徒隊」です。戦火で命を落としたのは136人。何の罪もない若い命が、国家の犠牲になりました。 元ひめゆり学徒隊で、奇跡的に生き残り、戦後はこの歴史を風化させてはならぬと語り部として一生を捧げた与那覇百子(ももこ)さんが、11月8日に那覇市のご自宅で死去されました。享年96。死因は老衰との発表です。 僕も、「ひめゆり平和祈念資料館」でこの人のお話に耳を傾けたことがきっとあるはずで…訃報に接して涙が止まりませんでした。なんという過酷な人生か。資料館にあった少女たちの無邪気な笑顔の写真が、脳裏に蘇ってきました。 百子さんが負傷兵看護のために動員されたのは、16歳のとき。1歳先輩の上地貞子さんとともに、軍医も看護師もいない、薬も医療器具もない病院とは名ばかりの塹壕で、負傷兵の体からウジ虫を取り、排泄(はいせつ)の世話をしたといいます。その合間を縫って、砲弾が飛び交う中、食料や水の調達にも行かねばなりません。 動員から1カ月後、一緒に行動していた先輩の上地貞子さんが爆撃で死にました。たまたまお遣いに行っていた百子さんが戻ると、貞子さんの体はバラバラになって落ちていたといいます。「私が出かけていなかったら…」と自責の念に苛(さいな)まれました。いよいよ米軍が迫ってきた6月18日、日本軍は突如、学徒隊に解散命令を出しました。しかし「生きて辱めを受けず」と教わっていた生徒たちは途方に暮れ、海に飛び込んだり手榴(しゅりゅう)弾で自爆するなどし、自ら死を選んでいきます。死に場所を探して彷徨(さまよ)っていた百子さんは、米軍の捕虜になり、敗戦を迎えました。 多くの級友も家族もなくして、「私、生きていていいのかしら」といつも自分に問い続けながら、1955年に上京。関東を中心に語り部として活動する決意をします。その後、「ひめゆり平和祈念資料館」でも証言員として語ることをやめませんでした。