じつは「アメリカ軍」はほくそ笑んでいた…ついに日本で実現してしまった「アメリカのヤバすぎる思惑」
日本の戦後を貫く方程式
このように、米軍が書いたこの旧安保条約の原案には、指揮権についても基地権についても、非常にリアルな日米安保の本質が記されています。 そしてこの「米軍原案」と、第5章でお話しした「密約の方程式」を組みあわせれば、その後70年近くのあいだに日米間で起きた無数の軍事上の出来事を、すべてひとつの大きな流れのなかに位置づけることができるのです。 思い出していただきたいのですが、戦後の日米間の軍事上の取り決めを貫く基本法則は次のとおりでした。 「古くて都合の悪い取り決め」=「新しくて見かけのよい取り決め」+「密約」 そして1950年10月の「米軍原案」が、その後わずかな訂正だけで正式な日米交渉の場に提出されたという事実を考えあわせると、戦後、日米間で結ばれたすべての条約、協定、密約を、具体的な条文レベルで次のように整理することができるのです。 「米軍自身が書いた旧安保条約の原案」=「戦後の正式な条約や協定」+「密約」 この式にあてはめてみると、これまで不思議でしかたがなかった、ほとんどの謎がスッキリ解けてしまいます。軍事面からみた「戦後日本」の歴史とは、つまりは米軍が朝鮮戦争のさなかに書いたこの安保条約の原案が、多くの密約によって少しずつ実現されていく、長い一本のプロセスだったということができるでしょう。 そのもっとも典型的な例が、2015年に大問題となった安保関連法でした。前章で述べたとおり、この1950年10月の「米軍原案」に書かれていた海外派兵についての条文が、なんと65年もの時を経て、ついにあのとき、オモテの国内法として成立してしまったわけです。 もちろん、歴代の首相や大臣、官僚のなかには、この大きな流れに抵抗しようとした人もいれば、積極的に推し進めることで個人的な利益を得ようとした人もいたでしょう。 しかしその無数の人間ドラマもまた、軍事面から見れば、この米軍原案が長い時間をかけて少しずつ実現していくプロセスの一コマでしかなかった。それが日本の戦後史だったということです。 悲しい現実ですが、事実はきちんと見たほうがいい。事実を知り、その全体像を解明するところからしか、事態を打開する方策は生まれてこないからです。反対運動でその違法なプロセスの進行を遅らせているあいだに、その法的な構造を体系的に解明し、根本的な解決策を考えださなければならないのです。