スカイツリー、横浜マリンタワー、通天閣…全部同じ地図記号だった!明治から現代まで、<高塔>記号の変遷をたどる
◆塔の記号の歴史 そもそも塔の記号は明治13年に整備が始まった2万分の1迅速測図が最初で、単に「塔」と規定していた。 電波塔など存在しない頃なので、もっぱら五重塔、三重塔など寺院の梵塔を対象としている。 形はこれらの塔を上から見たイメージで、方形の屋根の棟を対角線状に描くデザインであった。 やがて時代が進んで梵塔以外の塔が増えたことを背景に、明治42年図式で初めて「高塔」の記号が現れる。 これで「梵塔」と区別するようになったのだが、実質的にはその前の明治33年図式まで存在した「西教寺院ノ鐘楼」という記号の守備範囲をキリスト教会以外にも広げたものであった。 大正3年(1914)12月に刊行された記号判読のためのガイドブック『地形図之読方』によれば、高塔は「高聳セル建築物仮令ハ(たとえば)層閣、火見櫓、西教寺院ノ鐘楼、時計台ノ如キモノヲ示ス」とある。 古い1万分の1地形図で確かめてみたら、まさにこの月に開業した東京駅の赤煉瓦駅舎にも南北端にそれぞれ1ヵ所ずつ、この高塔記号があった。 東京駅の屋根は昭和20年5月25日の大空襲で焼け落ちてしまったが、平成24年に創建当時の姿に復元された。 図に描かれていたのは現在丸の内北口と南口のドームの上にある八角形の塔屋で、現代感覚では「高い塔」には見えないが、建物の一部である塔屋にも高塔記号は適用されていた。 昭和10年に陸地測量部が部内向けに発行した『地形図図式詳解』でもきちんと説明していて、「家屋ニ属スルモノハ家屋ノ真形ヲ描キテ其存スル位置ニ記号ヲ描クヘシ」とある。 銀座四丁目の交差点に関東大震災以前から聳えていた服部時計店の時計台(現在は2代目)ももちろんこの記号で描かれていた。 戦後は箱型のビルが増えたこともあってか、さすがにこのようなきめ細かい使い方はしていない。
◆記号の統廃合 戦後になって初となる昭和30年図式では記号の統廃合が積極的に行われた。 記号は多い方が対象を的確に表現できるのは言うまでもないが、それだけ読者の負担も増すため、多くの国民に読んでもらうための統廃合であった。その中で梵塔は高塔に含まれることになる。 当時は類似の記号として「給水塔」もあった。 昭和30年代から大都市圏で急速に増える団地のまん中のシンボリックな存在として良い目印にはなったが、これも昭和40年図式で高塔記号に統合されたため、高塔の守備範囲はさらに広くなっていく。 高塔記号の変遷を明治期からずっと追っていくと、聳える建物の増加に伴って種類を分ける必要に迫られたものの、戦後の記号の統廃合の波と都市圏における高層建築のさらなる急増が、地形図の記号の命である「目印」としての高塔記号の価値を低下させてしまう。 平成25年図式では記号のハードルを60メートルと大幅に高めたことで火の見櫓や団地の給水塔はその地位を剥奪されるが、象徴的なのが札幌の時計台だ。 かつては周囲から抜きんでた、まさに聳える目印であったがゆえに高塔記号が燦然と輝いていたのだが、時代は進んで今やビルの中に埋もれている。 それだけ日本の景色が立体化した証拠であろう。 ※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
今尾恵介