【都市化の残像】旭日の東京駅「日本人は驚いても走り出さなくなった」
しかしこの駅は、ほとんどの乗客に背を向けていた。 当時、この地域の商業の中心は日本橋と銀座であり、市街地は八重洲側に広がっていた。つまり一般庶民は、赤煉瓦の威容を誇る建築を見ることもなく、八重洲口という裏口から入らざるを得なかったのだ。 東京駅はどこに向いていたのか。 もちろん皇居である。 逆に言えば、明治維新の祭に天皇が江戸城に入ったまま、仮の姿であった皇居は、この駅の完成によって、ようやく一国の元首の住居としての風格を獲得するに至ったのである。本来、平城京平安京以来の皇居の思想的な概念と、中世以来の武家の城郭の防御的な概念とは、都市計画的にも、建築学的にも、異なる系譜にある。 東京駅の完成によって、その中心から皇居和田倉門までの短い道路が、日本国の象徴的軸線となった。 基本的には、サン・ピエトロ寺院やヴェルサイユ宮殿に見る西洋的な軸線の概念に基づいているが、壮麗な外観を誇る外国の宮殿に比べると、日本の宮殿は堀と森に囲まれて眼に見えない神秘の存在である。わずかに東京駅と、皇居に至る短い道路がその存在をヴィジュアルに顕示しているのだ。 開業式の挨拶に立った大隈重信は、次のように演説した。 「太陽が中心にして光線を八方に放つが如し」 少し前に、南満州鉄道(満鉄)が株式会社として発足している。そしてその少しあとに、伊藤博文が、ハルビンの駅で暗殺されている。 つまり東京駅は、大日本帝国が、鉄道によって海外にまで力を広げる、すなわち光を放つ太陽のような象徴的中心として建設されたのである。 黒船に驚いて以来、走りつづけた日本人は一段落する。言い方を換えれば日本人は、旭日のように赤い中心をもつ「陸の黒船」を手に入れたのだ。 第一次世界大戦で漁夫の利を得てしばらくは好景気に沸いたが、やがて不況が相次ぎ、この国は次第に軍国化して満州事変へと突き進むことになる。東京駅の完成後、登りきった陽が沈みはじめたように。