【都市化の残像】旭日の東京駅「日本人は驚いても走り出さなくなった」
明治5年に新橋横浜間を汽車が走って以来、近代日本の発展と軌を一にして鉄道建設は順調に進められた。 明治22年から24年、東海道本線、東北本線と相次いで開通し、列島は東京を中心とした鉄道網で結ばれるようになる。このころから、大日本帝国という言葉が使われ、文明開化から富国強兵へ、そして日清戰争へと向かう。つまりこの国は陽が登る勢いであった。 とはいえ、東海道本線は新橋まで、東北本線は上野まで、東京の中心部には入らなかった。それが世界の常識であるからだ。 パリでも、ロンドンでも、ローマでも、鉄道駅は都市の周縁でストップし、大都市の中心部を貫くことはない。それがターミナル(終着駅)というもので、あの大きなドームの下に何本もの列車が停止して、乗客が端の方から歩いて行く姿は、映画などにもよく登場し、独特の旅情を誘ったものである。 しかしこの時代の日本では、東海道本線と東北本線を結ぶべく、新橋と上野の間に駅をつくる構想が持ち上がる。ヨーロッパの都市が石造煉瓦造の建築で稠密につくられていたのに対して、日本の都市は小さな木造建築の集合で工事しやすかったこともあるのだろう。この駅の構想はしばらく「中央停車場」と呼ばれた。 中心が欲しかったのである。 徳川幕府が街道網を整備し、その中心に日本橋を掛けて里程の原点としたように、明治政府は、国土の中心としての、日本鉄道網の原点が欲しかったのだ。 つまり象徴である。 構想が実現に向かうのは、日露戦争に勝利し、第一次世界大戦に向かう、大日本帝国に陽が登り切ったような勢いの時期である。 大正3(1914)年に完成し「東京駅」となる。 南北に大きく翼を広げる、赤煉瓦の壮麗な建築であった。 設計は辰野葛西事務所。 辰野金吾は立志伝的な人物で、帝国大学の教授となり、日本建築学会の創設にも関わり、設計事務所を運営した、明治建築界の法王とも呼ばれる人物で、葛西萬司はその弟子であった。日本銀行本店や両国国技館も彼らの設計である。 東京駅は、明治洋風建築の集大成と言っていい。