「子役時代の輝きを失っていた」大物俳優との再会が転機に…真田広之64歳がアメリカで快挙を成し遂げるまで〈日本人初ゴールデン・グローブ主演男優賞〉
海外俳優たちとの共演が転機に
最初に海外を意識したのはさらにさかのぼる。17歳のときに主演した深作欣二監督の映画『宇宙からのメッセージ』(1978年)で、ハリウッドやブロードウェイから招いた俳優たちと共演したことがきっかけだった。彼はのちに次のように語っている。 《若いアメリカの俳優たちといろんな時間をシェアするうちに、向こうの俳優のレベルの高さや層の厚さを垣間見た。食事の合間に片言の英語で必死に質問するんですが、彼らは俳優としての訓練が徹底的になされていた。そのときのコミュニケーションをとれないもどかしさがバネになりましたね。海外の監督や世界の一線で活躍している俳優たちと対等に向き合いたい、そのためには今の自分に何が足りないのかと考え始めました》(『婦人公論』2007年7月22日号) これをきっかけとして、20歳ぐらいからは毎年ニューヨークやロンドンに通い、演劇や音楽、映画に触れ、トップと呼ばれる人たちがどんな表現をしているかを知ることで、自身に宿題を課すようになった。
「子役時代にはあった輝きが失われている」転機となった“再会”
真田は5歳で子役デビューしており、そこから数えると芸歴はまもなく60年を迎えようとしている。子供雑誌のモデルからスカウトされて児童劇団に入り、さまざまな映画に出演したのち、いったんは子役をやめたが、中学に入って俳優を本格的に志した。そこで彼が門を叩いたのが、俳優の千葉真一が主宰するジャパン・アクション・クラブ(JAC)だった。千葉とは子役時代の映画デビュー作で、続編も2作つくられた『浪曲子守唄』(1966年)で共演していた。 17歳のときには、千葉と深作欣二監督が組んだ映画『柳生一族の陰謀』(1978年)のオーディションに合格し、再デビューする。それまで本名の下沢広之で活動していたが、このとき千葉が、自身の芸名の真一から「真」、本名の前田から「田」を取って「真田広之」という芸名をつけてくれた。 同じ年には前出の『宇宙からのメッセージ』で主役に抜擢され、翌年も『真田幸村の謀略』『戦国自衛隊』にあいついで出演する。ただ、千葉は真田に再会したときから、子役時代にはあった輝きが失われていると感じていたという。それでも真田に寄せる期待は強く、何とかして売り出そうと考えていたとき、東映のプロデューサーの日下部五朗から『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)という忍者映画の企画を持ちかけられた。 日下部は当初、この映画の主演には体操のオリンピック選手を考えていたが、千葉は演技経験のない者の起用に反対し、代わりに真田を推したのだった。日下部は「いま一つアピールするものが足りない」と難色を示すも、それは千葉もかねがね思っていたことであり、撮影に入るまでの3ヵ月のあいだに鍛え直して、真田を別人にしてみせると訴えてどうにか納得してもらう。
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