自分のやってきたことは消せない―― ASKAが歩く新しい音楽人生、引退決断から脱退まで
その予測は当たった。デビューシングル「STAR LIGHT」はオリコン初登場1位。2作目「ガラスの十代」、3作目「パラダイス銀河」も当たった。光GENJIはのちのSMAPや嵐などの男性アイドルグループの道を切り開き、ローラースケートブームをも到来させた。 そう、「社会現象」は本当にやってきた。ASKAはいずれの楽曲でも作詞・作曲を担当(「STAR LIGHT」のみチャゲ&飛鳥での作曲)した。楽曲はいまも熱心な音楽ファンの間で語り草になっていて、カラオケで歌われている。 ようこそここへ 遊ぼうよパラダイス 胸の林檎むいて 大人は見えない しゃかりきコロンブス 夢の島までは さがせない 「パラダイス銀河」より
「これが人生のピークなのだとしたら」。33歳で感じた恐怖
光GENJIの仕事が一段落し、30代に入った。このころASKAは死ぬほど働こうと決めていたという。 「人生は一度きり。あとから振り返って、後悔しない働き方をしたかったんです。あのころ、休みもとらずに猛烈に働きましたね。それに歌にしたって、30代だから歌えることがあるんですよね。何でも歌えるのが30代なんです。わかったようなことを歌っても許されるし、恋愛の生々しさも歌える。切なさやエロティックなことを歌っても許される。これが40代、50代になってくると、おぞましく聞こえてくる。いつまでも歌えるものではないんです」 結果はついてきた。 33歳、CHAGE and ASKAで発表したシングル「SAY YES」(91年)はオリコンチャートで13週連続1位を記録し、年をまたいだ実売枚数は300万枚を超えた。同じ年にソロで発表したシングル「はじまりはいつも雨」も100万枚を超える売り上げとなっている。
「ぼくらのヒットって、CDが一番売れている時代に起きたことだったんです。知らない世界に毎日踏みこんでいっている。そんな実感です。『SAY YES』は、連日3万枚から5万枚のバックオーダーが続きました。いまとなっては信じがたい数字でした」 売れ続けるCD。忙しい毎日。こんな感情にとらわれることがあったという。 「33歳でした。これが自分の人生のピークなのだとしたら……。恐怖に似たものを感じました」 その後も「YAH YAH YAH」(93年)、「めぐり逢い」(94年)といったシングルをミリオンセラーにする。このころASKAは「ブームになってしまった」という気持ちを持っていた。スケジュールは3年先まで埋まっている。仕事を断らなければならないときもあって、そうしたことも少なくなかったため、「横暴だ」と言われることもあったという。あのころ、淡々とやることは「簡単ではなかった」と振り返る。