「『二度と被爆者をつくるな』思いを届けないと」使命感新た…被団協ノーベル平和賞授賞式で登壇の代表委員
被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」の代表団は8日、ノーベル平和賞の授賞式に出席するため、ノルウェー・オスロに向けて出国する。式で登壇する代表委員は「幼児被爆者」。当時の記憶が乏しく、語り継ぐ葛藤を感じながらも、被爆地で活動を先導してきた。運動を率いた先人らへの思いも胸に、10日の授賞式に臨む。 【写真】谷口稜曄さん
「先人が苦労しながら切り開いてくれた道を歩んできた。世界に私たちの訴えを知ってほしい」。7日午後、長崎県大村市の長崎空港。代表委員の田中重光さん(84)(長崎市)は自身の前任だった谷口稜曄さん(2017年に88歳で死去)と一緒に納まった写真を手に式への思いを語った。
4歳の時、長崎の爆心地から約6キロ離れた自宅で被爆。閃光を浴び、爆音と爆風に襲われた。家のガラスは割れ、ふすまや障子が吹き飛んだが、けがはなかった。記憶が鮮明なのはその場面だけだ。
旧国鉄を退職し、59歳から被団協の構成団体「長崎原爆被災者協議会(被災協)」で本格的に平和活動を始めた。2005年、訪問した米ニューヨークのホテルで同室になった谷口さんの背中を初めて目にした。
爆心地から1・8キロの路上で原爆の熱線を受け、背中が真っ赤に焼けただれた谷口さん。皮膚は押せば破れそうなほど薄かった。3年7か月間の入院生活を送って奇跡的に生き延びた谷口さんと、体験が薄い自分。「同じ被爆者でも違う」と痛感した。
被災協役員から語り部になるよう何度も促されたが、「私の証言は5分で終わる」と約3年間、固辞した。ただ、自分の傷をさらけ出して世界を飛び回る谷口さんらの姿を見続け、「運動を途絶えさせるわけにはいかない」との責任感が芽生えるようになった。
記憶が鮮明な語り部が相次いで他界する中、証言することを決意。約10年前から、原爆投下の経緯や谷口さんの体験も交えて修学旅行生らに講話を始めた。谷口さん亡き後、被災協会長にも就き、核廃絶運動の先頭に立ってきた。