〈信長、秀吉、家康が首相になったら〉歴代総理の誰に相当?映画「もし徳」から考える「戦国の三英傑」のリーダー像
「氏より育ち」か、「育ちより氏」か
三英傑を号令というかキャッチフレーズで比較すると、信長は「天下布武」を唱えたが、人殺しが嫌いな秀吉は話し合いで解決するという意味を込めた「惣無事(そうぶじ)」、家康は「元和偃武(げんなえんぶ)」を掲げた。 元和は「大坂夏の陣」が終わった1615年からの新元号であり、偃武は「武をやめること」「武器をおさめること」で、「長い戦乱の時代が終わり、平和が来た」という意味である。信長が天下を統一するまでの「覇道」を示す標語だったのに対し、秀吉・家康の標語は政権を取ってからの平和な世を目指した「王道」である点に大きな差異がある。 三英傑の生国は、信長が尾張国の勝幡城(しょうばたじょう)、秀吉は尾張国の愛知郡、家康が三河国の岡崎城と異なるが、いずれも今の愛知県という共通点がある。生まれた年は、信長は天文3(1534)年、秀吉は天文6(1537)年、家康は天文11(1542)年なので、秀吉は信長より3つ下で、家康は秀吉より5つ下、信長より8つ下という違いがあるが、いずれも「天文」という同じ元号の時代に生まれ育ったという共通点がある。 「織田が搗(つ)き、羽柴が捏(こ)ねし天下餅、座りしままに食(くら)ふは徳川」 三英傑を語る場合の定番は、この狂歌と「ホトトギスの川柳」を外すわけにはいかない。 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 信長 鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ホトトギス 秀吉 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 家康 この3句に3人の顔つきや性格がよく表れている。信長は狼、秀吉は猿、家康は狸だ。のっそりした動きは家康だけ。狼も猿も動きが俊敏だが、地を走る狼と空を飛ぶ猿とでは動き方が異なる。信長も秀吉もアイデアマンで、機を見るに敏、敵の裏をかく戦法を好むところはよく似ているが、目のつけどころは違っている。 よく知られていることだが、信長は短気で、意のままにならぬ生き物は殺す残虐性があり、秀吉は努力型だが、家康のようにただじっと腰を据えて忍耐強く待ち続けるのは苦手で、自分で動いて創意工夫する点が優れているという大きな違いがある。 家康は「天道は第一に奢侈を憎む」といって「質素倹約」をモットーとし、戦時中の標語「贅沢は敵」「負けられません、勝つまでは」に通じるものがある。そう考えると、家康が「非常時の総理大臣」には向いてるかもしれない。 家康は「用心深い」「忍耐強い」「ケチ」といわれ、「石橋を叩いても渡らない」と評されてきたが、そうさせたのは信長や秀吉にはない「暗い生い立ち」だ。父も祖父も家臣に殺され、6歳から19歳まで12年間も人質で、その間、金で売買された屈辱も味わった。 軍事同盟を結んだ信長に命じられて妻(正室)と嫡男を殺さざるを得なかった。そういう前半生を考えれば、老いるにつれて〝タヌキ親父〟になっていったのは当然のなりゆきだ。 贅沢三昧の秀吉は「朝鮮出兵」という暴走を犯して「国家の危機管理」の点で失格だし、豪華絢爛たる安土城を築いた信長も光秀の怨みを買って下剋上という非常事態に遭って死んだのだから、非常時の総理大臣には不向きといってよいだろう。