藤原道長を支えるもう1人の妻・源明子 流罪の父をもつ姫君の生涯とは
大河ドラマ『光る君へ』ではいよいよ藤原道長(演:柄本佑)が右大臣となり、一条帝の御代において大きな権力を手にしていく。正妻・源倫子(演:黒木華)もさることながら、もう1人の妻である源明子(演:瀧内公美)の存在感も大きい。父が流罪になるという波乱の少女期を経て、彼女はどのような人生をおくったのだろうか。 ■安定した幸せを手にするも心の内には謎が多く残る 源明子は醍醐天皇の子・源高明の娘です。その邸宅から高松殿とも呼ばれました。源高明は左大臣の位に上りましたが、安和の変(安和2年/969年)により断罪され大宰府に流されました。安和の変は、高明が娘婿の為平親王の即位を策謀した企てであったとされますが、これは高明の勢力拡大を恐れた藤原氏(だれが首謀者かは諸説あります)の謀略とする見方が有力です(逆に藤原氏の関与を否定する説もあります)。なお、源高明は古来、『源氏物語』の主人公光源氏の有力なモデルの1人とされています。確かに臣籍に降下し、須磨・明石に流離した光源氏は高明と重なる部分があります。 さてその時点でまだ幼かった明子は叔父の盛明親王の養女になりましたが、盛明親王も亡くなり、円融天皇(為平親王の弟)の妃・藤原詮子が引き取りました。『大鏡』(道長伝)に拠ると、東三条殿の東の対に、豪華な部屋の飾りのもと、女房など仕える者達を立派に揃えて大切に世話をしたということです。道隆・道兼・道長の兄弟たちは年ごろになっていた明子に色めき立ち、盛んに求愛してきましたが、詮子が許したのは道長だけでした。ここでも詮子が道長をいかに可愛がっていたかがうかがえます。 その後道長との間には、男君4人、女君2人が生まれます。『大鏡』は「北の方二所」と記して、明子と倫子は同格の妻であるかのように記しますが、頼通や教通、彰子等の母である倫子が正妻であることは動きません(倫子との間には、男君2人、女君4人が生まれています)。 それにしても、『大鏡』が「道長のお子様は男女あわせて12人」と記すように、道長は子だくさんでした。そしてその子達について、同じく『大鏡』が「(道長の妻は)2人とも源氏でいらっしゃるので、後世に源氏がお栄えになることは間違いない」と記すように、源氏の血が流れているのでした。 この連載の源倫子の回で、道長が「男は妻次第だ(男は妻(め)がらなり)」と言ったとする『栄花物語』の記述を紹介しましたが、道長が妻に高貴な血筋を求めていたことは確かなようです。 明子が生んだ男子には、頼通らと融和し右大臣に上り、歌人としても知られた頼宗や若くして出家した顕信(道長と明子の両親が深く悲しんだことが伝えられています)、藤原氏の外戚を持たない尊仁親王(後の後三条天皇)を支援した能信、源倫子の養子となり歌人として知られた長家がいました。『紫式部日記』には寛弘5年(1008)当時、まだ少年であった、明子の子らを「高松の小君達」と呼び、若い女房たちにじゃれかかり、ふざけあっている様子を記しています。女子には、小一条院の女御となった寛子、源師房の妻となった尊子がいました。 また明子の兄弟のうち、兄の源俊賢は四納言の一人で、有能な官吏として知られ、権大納言まで上りました。弟の源経房は道長の猶子となり、権中納言まで上りました。経房は清少納言とも親交があり、『枕草子』の流布に関わったことでも有名です。これら兄弟の出世は道長抜きではなしえず、その妻・明子の存在が多く関わっていたことでしょう。 実際、明子の人生は父の高明や夫の道長を抜きに語ることはできないでしょう。しかし、明子が父の流罪のことや、道長との結婚をどのように思っていたか、残念ながら伝わっていないのです。大河ドラマは明子の心に分け入り、新しい明子像を生き生きと浮かび上がらせています。 明子は道長の没後も生存しており、永承4年(1049)に亡くなりました。晩年、どのように過ごしていたか、詳細はわかっていません。 ※「男君」「女君」はそれぞれ平安時代にも貴族の子息・子女への敬称をあらわす例があります。 【参考文献】 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸