信頼できるうそつきの条件 津村記久子『うそコンシェルジュ』(レビュー)
村雲菜月・評「信頼できるうそつきの条件」
採用試験の適性検査で「うそをついたことがありますか?」という質問に「いいえ」で答えると、どれだけ成績や印象がよくても落とされるらしい。子供の頃からうそつきは泥棒の始まりと教えられた挙句、いざ社会に出る前になってうそをつかない人間はいないという前提で出されるこの問いには、意地の悪さを感じる。「いいえ」と答えた時点でうそつき認定されるし、「はい」と答えて自他共に認めるうそつきになった場合、今までの質問の答えは何一つ信じられないということになるのではないか? なんてひねくれた事を考えてしまう。 表題作「うそコンシェルジュ」は信頼できるうそつきの話だ。主人公のみのりは小規模な布の展示会で偶然知り合った相沢さんとの約束を断るための言い訳を考え、姪の佐紀が病気を患ってしまったのだとうそをつく。そのうそは見事成功したが、それを佐紀に話したばかりに、今度は食生活や服装にまで口を出してくる先輩のいる大学のサークルから抜けたいのだと佐紀に相談され、うその口実を考えることに。そのうそも成功した末、佐紀の大学の同級生である谷岡君からも自分のおばあさんのためにうまいうそのつき方を教えてほしいと依頼を受けてしまう。 冒頭で「あまりうそをつかない」と言っていたはずのみのりが、自分のためについた何気ないうそを皮切りに、次から次へとうその請負人として必要とされることになる。うそのためにみのりが謎の行動力を発揮して綿密な準備をする様子が作中ではコミカルに描かれてはいるが、そのたびに削がれる精神と積もる罪悪感は読んでいるこちらにまでじわじわと伝わってくる。 続編「続うそコンシェルジュ――うその需要と供給の苦悩篇」では、みのりは職場の部長からも相談を持ちかけられる。部長の姪が参加しているトレッキング部の活動で体調を崩したことをきっかけに、妹(姪の母親)が顧問の先生を辞めさせようとしている。なんだか穏やかな話ではないし姪も精神的に参っているので、姪のためにも妹のリコール運動を止めさせたい。などという相談を受けたみのりは、うそを駆使して架空の人物までつくりあげ、妹の説得を試みる。しかもそのために、以前うそのターゲットとなっていた谷岡君のおばあさんにも協力してもらう。なんとも複雑な虚偽の相関が展開され、もうコンシェルジュではなくコンフィデンスマンに転向すべきではと言いたくなる。 どうしてみのりはこんなにも周囲から信頼されているのだろう? 部長が妹家族の抱える問題を相談したり、その問題を解決するためのうそに周囲が協力したりするのには、彼女のうそが優れている以外にも、別の部分が評価されているのではないか。 作中では、うそをつかれている人間は特に何も損をせずに救われていき、うそをついている人間の方がどんどん疲弊していく。谷岡君のおばあさんがこらえきれず「もううそをつくことはできません」と言ったことに対して、みのりは「他人にうそをつくことは、それ以前にまず自分にうそをつくという行程を必要とする。それが平気な人もいるし、苦痛な人もいる。」のだと改めて考える。うそつきの被虐性を理解しているみのりは、他者をひどく傷つけたりはせず、自分の利益のためにうそをつく人間ではないと周囲から認められているのだろう。それが彼女と周囲の間に生まれる軽妙な会話や態度、行動から読み取れるのがこの作品の魅力的なところである。信頼される人間というのは、同時に信頼されるうそつきでもあるのではないか、とまで思えてしまう。 本書は前述した二篇を含む全部で十一篇の短編集で、他の短編にもパートをしながらひそかに漫画を描く女性や六年生なのに四年生の補習を受ける小学生など、周囲との関係に隔たりを感じる人物が登場し、すべての作品において他人に無理に合わせることで感じるしがらみと、気を許せる人がいることのありがたさが描かれている。もう一篇挙げるなら私は「第三の悪癖」を特におもしろく読んだ。実家から盗んだ食器を割ってストレスを発散している女性が出てくるが、そのおかしさに彼女が誰よりも自覚的であるところに人間らしいままならなさを感じた。その程度の異常さを私たちは抱え込み、コントロールしながら生きていくくらいでちょうどよいのだと、励ましを受け取ったような気分だった。小説は何をどう書いてもうそには変わりないのだが、その中でも信頼できる物語が読めるのは幸福なことである。 [レビュアー]村雲菜月(小説家) むらくも・なつき 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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