『マッドマックス:フュリオサ』フュリオサの瞳、孤高のシルエット
(再)開拓史としてのマッドマックス
『フュリオサ』の物語の大枠は、前作を撮る段階で既に出来上がっていたという。シャーリーズ・セロンにキャラクターへの理解を深めてもらうために用意された物語。この物語を読んだシャーリーズ・セロンは、「この物語を先に撮ろう」とジョージ・ミラー監督に提案している。そのときジョージ・ミラーは、フュリオサの物語自体に抗いがたい“強さ”があることを思い知ったという。こういった偶然性のある逸話は、『マッドマックス』シリーズの誕生とも大きく重なっている。 『マッドマックス』(79)が評価を得たとき、ジョージ・ミラーは自分の作品が無意識にアメリカの西部劇の原風景に足を踏み入れてしまったことに気づかされたという。フランスでは“車輪のついた西部劇”と評された。ジョージ・ミラーはこういった外側からの思いがけない反響を作品に投影させ、製作への強い動機を獲得していく。『フュリオサ』で初めて描かれる多くの女性たちが存在する楽園「緑の地」において、女性たちは馬に乗って移動している。西部劇の原風景のような世界。このシーンは映画を撮る動機の原点に立ち返ったジョージ・ミラーの宣言のようにも思える。再びここから始めるのだと。馬に乗った女性=フュリオサの母メリー・ジャバサ(チャーリー・フレイザー)が砂漠を突き進む。その凛々しく勇ましいイメージ。開拓地におけるこのイメージが、フュリオサという孤高の戦士が誕生する伏線になっている。 ジョージ・ミラーの映画においては、アクションがキャラクターを作る。『マッドマックス』シリーズでは、車やバイク、マシーンそのものが生き物のようであり、マシーンがキャラクターを作っていく。前進に次ぐ前進。後戻りはない。そして突き進んでいくマシーンは戦いによって少しずつ破損、消耗していく。フュリオサ自身も同じだ。フュリオサはいわばマシーンであり、マシーンは傷だらけになりながら目的に向かって突き進んでいく。 幼いフュリオサを誘拐するディメンタスを演じるクリス・ヘムズワースは、用意された脚本が通常の脚本とはまったく違うことに驚く。ジョージ・ミラーの脚本は、どのように撮るかという情報や絵コンテで埋め尽くされていたという。この脚本の書き方には、ジョージ・ミラーのキャラクターへの哲学がダイレクトに投影されているのだろう。それでもクリス・ヘムズワースは、ディメンタスというキャラクターの解釈に悩んでいたという。たしかにディメンタスという破壊的なキャラクターは狂っているのか、それとも狂ったふりをした道化なのか分からないところがある。おそらくその両方が正しい。そこでジョージ・ミラーは、クリス・ヘムズワースにディメンタスになりきって日記を書くことを勧める。そしてディメンタスの“声”を獲得することに成功する。『フュリオサ』を体験したオーディエンスは、ディメンタスの声、話し方の抑揚を忘れられなくなる。フュリオサにとっては、ディメンタスの“声”がトラウマとなる。アクションと同じように、“声”がディメンタスというキャラクターを作りあげている。