もっと知りたい北方領土(3) 料亭やビリヤード場も 東洋一の捕鯨場
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、まだ平和条約も、北方4島の返還も実現していません。そうした中、9月に行われた日露首脳会談で、12月にプーチン大統領の来日が決まり、領土交渉の進展が期待されています。 あらためて、北方領土とはどんな場所なのか、どのような自然や産業があったのか。どのような生活を送っていたのか。そして、4島をめぐる今の人々の思いなどを、紹介していきます。 第3回は、終戦までの北方4島の暮らしです。
江戸時代から始まった開拓の歴史
北方領土開拓の歴史は、江戸時代の史料からみることができます。1635(寛永12)年、北海道を支配していた松前藩が蝦夷地方(北海道全島および千島・樺太を含む)の調査を実施。1644(正保元)年に幕府が作成した日本総図「正保御国絵図」には「くなしり、えとほろ、うるふ」などの島名が記載されています。 その後、ロシア進出の動きが活発なことを察知した江戸幕府は、国防上、蝦夷地を直轄地で統治することとし、大規模な巡察隊を派遣。択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てました。また1799年から1800年にかけて郷村制を敷き、17ヵ所の漁場を開き、幕吏を常駐させて本格的な開発を進めました。 明治維新以降、政府は蝦夷地を北海道と改称し、札幌に開拓使を設けました。1880(明治13)年には色丹、国後、択捉3島に村役場を設置。郵便局や駅逓(えきてい)、島と北海道を結ぶ定期航路も開設しました。もともと北方4島の海域は千島海流と対馬暖流が交錯し、古くから世界三大漁場のひとつと数えられていました。その豊富な水産資源にひかれ、本州から北海道への入植者たちも北方4島に移り住むようになっていきました。