もっと知りたい北方領土(3) 料亭やビリヤード場も 東洋一の捕鯨場
富山から大勢が入植 コンブ漁でにぎわった歯舞群島
北方領土の元島民らでつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)副理事長、河田弘登志さん(82)=根室市宝林町=は、明治の終わりごろ祖父の代に、歯舞群島のひとつ、多楽(たらく)島で生活を構えました。漁業が盛んな四島の中でも歯舞群島はコンブ漁が主体で、4月末から11月の収穫期には、出稼ぎの富山県出身者がたくさんやってきました。最初は冬になると帰っていましたが、だんだん定住する家族が増加。河田さんの祖父もその一人でした。 「島というと寂しい感じがするかもしれませんが、多楽は地形がコンブ漁に適していて、島の周囲はコンブを干せるように、家が切れ間なく等間隔に並んでいました」。河田さんは、活気あふれる少年時代の島の様子を振り返ります。わずか12平方キロメートルほどの島に、河田さんの記憶では1400人が暮らし、小学校には240人が通っていました。 北方4島の夏は日の出が早く、大人は2時や3時に起きると漁に出て、夕方戻ってくると大量のコンブを浜辺に積み上げました。翌朝、むしろを外し、コンブを広げて干す作業は子供たちも手伝いました。「コンブは10~15メートルの長さは普通で、倍ぐらいのサイズのものもありました。子供には広げるのも重労働でした」(河田さん)。太平洋戦争が始まる前まで、上質な多楽昆布は根室港から中国上海に向けて輸出されていた、と言います。 戦時中、出征で若い働き手が減ったころからは、食用に適さないコンブから、火薬に使うヨードをとる作業に追われたことを覚えています。「『カリ増産』と言って、まだ学校に行かないような小さな子も家族総出で手伝いました。わたしも小学生だったので、朝の登校前はもちろん、走って学校から帰ってきて、コンブを干していました」。河田さんの心に残るのは、終戦までコンブでにぎわった島の日常です。
料亭やビリヤード場も 東洋一の捕鯨場で栄えた色丹島
得能宏さん(82)=根室市光洋町、千島連盟援護問題等専門委員=も富山県黒部市出身、明治元年生まれの祖父が開拓した色丹島斜古丹で育ちました。斜古丹は、当時東洋一の捕鯨場があり、年間200頭の水揚げを誇ったといいます。クジラは、内臓から油や肥料をとる加工業も盛んでした。 得能さんの祖父も、漁業と加工業で島屈指の存在でした。干しタラや海苔の加工品などを手がけ、フジコ(ナマコ)は中国にも出荷しました。家には、加工業に従事する出稼ぎ者が20人弱泊まれる宿泊所もあり、全員が食べるための大釜で炊かれたご飯のおこげでつくってもらったおにぎりをおやつにほおばっていました。 「斜古丹は商人と漁業で成り立っていて、役場、郵便局、警察のほかにも、商用で使う旅館や割烹料亭が4軒、ビリヤード場1軒あって、まさに色丹の中心、社交場だったよ」。 漁の熱気に満ちた斜古丹の暮らしで、得能さんの脳裏に今も浮かぶのは、大漁旗をはためかせて島に船が帰ってくる景色です。船が沈みそうなくらいまでの釣果を知らせる3枚の大漁旗を掲げて戻ってくることもたびたびで、船を見つけたときには、高揚した気持ちで、走って学校から帰ったことが忘れられません。