意外と知らない、なぜ日本は「安すぎて質の高いサービス」だらけなのか「根本原因」
適切な規制が、秩序ある労働市場を形成させる
これまで言及してきた通り、高齢期の就業者の方々の話を聞いていてわかるのは、彼らの大半は、現在の仕事を通じて少しでも人の役に立ちたいという思いで働いているということである。こういった方々の真摯な思いを尊重し、働くことが報われる社会になるためには、労働者の献身によって支えられている労働市場の諸問題を是正していかなければならない。 なぜ日本では安価で質の高いサービスがここまで流通しているのか。日本人がまじめすぎること、生産性が高い企業への労働移動がスムースに進まないことなど、様々な要因があげられる。 こうしたなか、問題の根幹は市場の競争環境にあるのではないだろうか。 賃金が低い水準で押さえつけられている業態をみてみると、その多くは競争が激しく、新規参入が容易な業態である。競争が激しい業界においては、既存企業が少しでもサービス水準を落とすと他企業に仕事を持っていかれてしまう。また、新規参入の障壁が低い業界においては、安いサービス価格を売りにした企業が参入してくる危険性と常に隣り合わせであり、サービス価格高騰につながる賃金水準の引き上げは難しい。 自由な競争市場を大原則としたうえで、過当競争を防ぐために必要な規制があるのではないか。過去、運輸業界や通信業界で行われていたような産業に直接規制をかける旧来の手法が必要だと言っているのではない。非効率な規制を撤廃することで市場における公正な競争を促しつつ、それと同時に、適切な労働規制の整備と運用によって市場の失敗を補完していくことが重要なのである。 近年の労働市場改革は、このような方向性に適ったものとなっている。2018年7月に公布された働き方改革関連法においては、時間外労働の上限規制が導入されるなど、労働時間に関する制度等の大きな見直しが行われている。 こうしたなか、労働規制の運用体制にはいくつかの課題が残されている。労働基準監督署は、基準を上回る時間外労働や不当な解雇、残業代の未払いなど、事業場における違法行為について日々監督指導を行っている。同署に勤務する労働基準監督官は司法警察員としての権限を付与されており、行政指導にもかかわらず事業場の法令違反が是正しない場合、差し押さえや逮捕などの強制捜査によって、検察庁に送検することができる。 法令上は強い権限を認められている労働基準監督官であるが、一つの違法行為を事件化するためには証拠の収集や捜査書類の作成など膨大な手間がかかる。 労働基準監督官の定員は全国で3000人超と、諸外国と比べてもその体制は脆弱である。全国で500万超ある事業場について、労働基準監督官による監督指導が行き届かず、結果として違法行為が常態化している企業も少なくない。公務員の人員などについては国民の税負担に直結することから厳しく監視していくべきではあるが、悪質な企業の市場からの退出を促し、市場に質の高い仕事を増やしていくためにも、労働行政の一定の体制強化も必要だろう。 最低賃金に関しては、近年大幅な引き上げが行われているところである。全国加重平均の最低賃金額は2021年度において930円。10年前の2011年度には737円であったことから、この10年間で26%の上昇となっている。一年当たりの上昇率に直すと2・4%となり、近年の日本経済成長率を考えると最低賃金の引き上げは積極的に行われていると評価することができる。 最低賃金には、賃金の最低額を保障することによって、低所得者の労働条件の改善を図る目的がある。一方で、一般的には、最低賃金の引き上げによって企業の採用意欲が冷え込めば、失業者が増加してしまうことがそのデメリットとして懸念される。 しかし、実際に足元の日本の労働市場をみると、最低賃金が断続的に引き上げられているにもかかわらず、なお市場では深刻な人手不足の状態が続いている。このようにして考えれば、労働供給制約時代を迎えている日本の労働社会において、最低賃金はもっと大胆に引き上げていってもよいのではないか。 労働側が主張する時給1500円程度の最低賃金であれば、失業率の急上昇という副作用を伴わずにこれを達成することはできるのではないか。現在、全国加重平均で1000円にも満たない状況からすると野心的な考えに聞こえるかもしれないが、現在の労働市場のひっ迫度合いをみていると、時給1500円でいつでも誰でも無理なく働き続けられる社会の実現は十分可能だと思う。これによって経営が苦しくなった事業者への対策も欠かせない。経済の健全な新陳代謝を促すためにも、倒産時の債務整理などには一定の寛大さも求められよう。 小さな仕事で働き続ける人への制度面からの支援ももっと積極的に考えたほうがよいだろう。社会保険の適用拡大などの取り組みをさらに進めていくことも必要である。給付付き税額控除といった税制上の改革も一層踏み込んだ議論が求められる。米国などでは、勤労所得税額控除(EITC)によって勤労所得のある世帯に対する税額控除を与え、所得が低く控除しきれない世帯にはその分の給与を行っている。税制上の課題や生活保護制度など諸制度との兼ね合いに留意しつつも、生涯現役社会に即した税・社会保障制度を構築し、小さな仕事を応援していく社会を実現することはできないのだろうか。 これまでの日本社会は、高齢期に働かないでも豊かに暮らせるための社会保障制度をいかに充実させるかということに、政府も個人も腐心しすぎてきたのかもしれない。残念ながらこれからの時代においては、働かないで豊かに暮らしたいという人々の願いのなかに、持続可能な解は見出せない。 そうであれば、高齢期に働き続けてもなお幸せな生活を送ることができる社会を目指すという方向性が、現代社会におけるより現実的な答えになるのだろう。そのためには、たとえ小さな仕事であっても、自身ができる範囲で働き続けたいと考える人を政策的に支援することは何より重要となる。 少子高齢化のなか、労働者に有利な条件を整備することで、高齢者の労働参加を拡大させる。高齢期に無理なく働き続けられる人が増えることで年金財政への依存度が低下すれば、働けなくて本当に困っている人たちへの福祉により多くの財源を充当させることもできる。 労働者の希少性が増している現代だからこそ、労働者に有利な環境を政策的に実現することは十分に可能なのではないかと考えるのである。 つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。
坂本 貴志(リクルートワークス研究所研究員・アナリスト)