「うまくなるな」寺山修司の教え 高橋ひとみが40年以上第一線で活躍する訳
だから、自分がなぜ受かったのか、よくわからないんです。オーディションが終わって会場の後ろで友だちを待っていたら、寺山さんがこちらに歩いてきて、「君、何番?」と声をかけられて。もしもあのとき、友だちを待たずに帰っていたら、いまの私はいませんね。 ── やはり光るものを感じたのでは? 高橋さん: 多分、じっと友だちを待っている私の姿が、「演劇好きで一生懸命な子」に見えたんじゃないでしょうか。 オーディション会場では、年齢も上のほうで背も高かったので、「きっと可愛いらしい子じゃないとダメなんだろうな」と諦めていたのですが、主役を取り巻く少女のひとりとして選ばれて、ビックリしました。
寺山さんの舞台はおおまかなコンセプトはあるけれど、台本がなくて、どんどん変わっていくんです。主宰する劇団「天井桟敷」の人たちは、そのやり方がわかっているけれど、こっちは初めてだから、わけがわからず、とまどいました。 でも、寺山さんも劇団員の方もみんな優しかったし、なにより学校以外のことで自分が認められる経験が嬉しかったんです。だから、怖いもの見たさのような感覚で、ドキドキワクワクしながら毎日、稽古に行っていました。
── ミッション系の一貫校だと、校則が厳しそうですが、芸能活動は大丈夫だったのですか? 高橋さん:学校からは「芸能活動をするなら退学ですよ」と宣告され、母には「せっかく中学から私立に入れて、もう少しで卒業なのに…」と泣かれました。でも、その後、院長先生に呼ばれて、「今度の試験の結果がよければ、特別に芸能活動を認めましょう」と言ってくださって。 じつは院長先生は、昔、歌手活動をされていたのだとか。だから、「やりたい気持ちを抑え込むと、一生後悔するだろうから」と、理解してくださったんです。そんな気持ちに応えたいと、勉強も一生懸命頑張りましたね。
■「家族よりも一緒にいる時間が長かった?」寺山修司との日々 ── 寺山修司さんの「秘蔵っ子」と呼ばれ、1983年に亡くなるまで、晩年を一緒に過ごされました。寺山さんは、どんな方でしたか? 高橋さん:とにかく誰に対しても優しい方でしたね。声を荒げて怒ったり、大きい声を出したりする姿を一度も見たことがありません。 寺山さんに、「とにかくそばにいなさい」と言われたので常について回りました。あまりに一緒にいるものだから、母は私の姿が見えないと、「うちの子そちらにいますか?」と寺山さんに連絡をしてくるほど(笑)。家族よりも長い時間を一緒に過ごしていました。