『進撃の巨人』は殺戮者をどう描いたか。コミックス版から変更された「対話」を起点に高島鈴が読み解く
2009年9月に『別冊少年マガジン』(講談社)で連載を開始して以来、10年以上にわたり世界的な大ヒットを記録してきた『進撃の巨人』。2013年から始まったテレビアニメ版も2023年に最終回を迎え、2024年11月8日、そのテレビアニメ版『進撃の巨人 The Final Season 完結編』が、長編映画としてブラッシュアップされ劇場公開にいたった。 【画像】『進撃の巨人』より これまでさまざまな媒体で考察や原作者などのインタビューが発信されているが、本記事では最終巻から当該テレビアニメ配信のあいだに変更された、ある場面の対話に絞って言及する。 執筆者は、ライター、アナーカ・フェミニストの高島鈴。「webちくま」の漫画と社会を読み解くポップカルチャー論にて約2万字にもおよぶ『進撃の巨人』論を執筆した同氏に、変更された対話により浮かびあがった、本作のメッセージに対する解釈を、二つの「語り」に着目して綴ってもらった。
酷いことを「やっちゃった」やつは、「いないほうがいい」のか?
そんな事実はない、少なくとも、誰にでも確認できるような次元においては。 ただ、なんとなく想像ができる……誰もが誰かと楽しげにざわついている昼休みの教室で、窓際の席に座ったまま、一人でぼんやり外を眺めている少年がいる。この子は、知らない誰かがボールを蹴り合っている校庭を見て、こう思っている――みんな死んじゃえばいいのにな。 別に何か嫌なことをされたわけじゃない。そもそも死ねばいいなと思っている相手の顔すらよく覚えていない。むしゃくしゃしているわけでもない。今日も頬杖をつきながら授業を聞いて、家に帰ったら食事をして風呂に入って、寝る前にゲームなり宿題なりをして寝るだろう。ただこの子は漠然と、それが全部壊れてもいいなと思っている。それが自分の周囲の人びとの大事なものを全部破壊するとしても、全部消え去ったら面白そうだなと想像する。そうだ、シンプルにいえば、壊れてほしいから壊れてほしいってことだ。A is A、理由はそれ以上分解できない。どうしてこう思ったのか、自分では説明がつかない。 そいつって危ないかもしれない。ふとした瞬間に、その手にナイフがあったら? そいつがもし人より遥かに巨大な存在になって何でも踏み潰せるようになったら? まあ、実際そうだった。その子はやってしまった。やりたいと思って、やれる力があって、それでも「やる」やつはとても少ないが、でも「いる」んだ。その子はたまたま「やる」やつだった。それだけなんだ。 じゃあ、「やっちゃった」としよう。そいつは果たして、「いないほうがいい」んだろうか? ……っていう問いの立て方は、これからする話をするうえでは「違う」んだ。 もう一回言っておこう、「違う」。いないほうがいいかどうか以前に、そういうやつはすでにいるんだから。「存在を議論するのは間違ってる」。まずここは、このコラムの前提だし、社会の大前提であるべきだし、そしてこのコラムが題材にしようとしている物語にとっては、極めて重要な骨なのだ。 尋ねたいのはそこじゃない。問いを新しく立てよう。 「やれたらやっちゃう」やつ、「やっちゃった」やつ、そういう相手は、はたして社会から排除されるべきなんだろうか? ちょっと誘導尋問みたいに聞こえるかな? ただ、答えはNo、とシンプルに言いたいけど、社会は現状そうなっていないのだ。この文章はいまも死刑のある「国」で書かれているからね。人間を排除する仕組みが解体されるべきだと私は考えているけれど、「悪いやつが排除される社会」じゃなくちゃ納得しない人たちがいる、というのもリアルな話だと思う。読者諸氏のなかにも、私の話に対して何も納得できないと感じる人はきっといるだろう。私だって、死刑や監獄には反対しているけれど、「裁き」や「ルール」のすべてをなくすべきだとは考えていない。 でもさ、対話はあるべきなんじゃないか。どんなに救いようのない「悪人」であっても、誰か声をかける人がいていいはずで、それに応答する権利もあるべきなんじゃないのか。私は想像する。「やっちゃった」やつに、それでもかける言葉を。何をしたとしても、それがどれほど許されなくても、最低限、そいつの存在そのものは、否定されていいわけがないんだから。