「大大阪」はなぜ衰退したのか? 過去の経験から私たちが学べること
関東大震災後、日本一の人口を誇った「大大阪」。復興が進み、市域拡大で「大東京」となった東京に間もなく人口では逆転されますが、経済の頂点は大阪でした。しかし戦時期、東京に逆転され、高度経済成長後、さらに格差が開いたとみられています。 日本経済史、日本経営史が専門の南山大経営学部、沢井実教授が連載第5回は、大大阪はどうして終わりを迎えたのか、そして、そこから何を学ぶことが出来るのか、まとめます。 ----------
「大大阪」時代の終焉:戦争と大阪経済
先にみたように大阪府と東京府の生産額は1939年に逆転し、以後その差を拡大した(図1参照)。 戦時期の生産額の伸びは当然のことながら軍需生産の動向に大きく規定される。1942年度末の陸軍関係の主要軍需工場数をみた表3にあるように、東京と大阪の格差は大きく、京浜と阪神の差も大きかった。
表1にあるように第1次大戦期以降京浜では機械器具工業生産額の全体に占める割合が阪神、中京と比較して高く、この機械工業の厚みが戦時経済との親和性の高さの一因となった。 また大阪には住友金属工業のようなプロペラ生産の大半を担う大企業があったとはいえ、三菱重工業や中島飛行機といった先端的巨大企業は存在しなかった。このことも下請け生産の展開とともに戦時期の大阪経済の展開を制約した。 軍需生産の拡大は民需生産の縮小をともなった。「東洋のマンチェスター」は繊維産業とその製品の輸出に基礎をおいていた。戦時期における民需生産から軍需生産への転換は大阪経済にひときわ打撃であっただけでなく、大阪経済の自立性をも大きく毀損したのである。
戦時期はまた軍部、行政指導優位の統制の時代であった。統制主体は統制対象が少ないほど統制しやすく、東京と比較して中小企業の割合の高い大阪(1937年で従業者10人以下の零細工場数が全体に占める割合は東京69%、大阪79%、100人未満工場の従業者数の割合は東京47.2%、大阪61.7%)はその点からも不利を免れなかった。