【光る君へ】最愛の息子・惟規を失って… 紫式部の父「為時」の切なすぎる晩年
娘の紫式部が藤原道長に貢献した影響
為時はすでに正妻を失っていたため、身の回りの世話をする人が必要なこともあったのだろう、このときは『光る君へ』で描かれたように、紫式部が同行した。ただし、彼女は藤原宣孝と結婚するために、1年ほどで帰京。その後、為時は長保3年(1001)まで4年間の任期をまっとうし、都へ戻った。 だが、宋国人たちとの交渉が甘かったと判断されたのか、ふたたび無官の日々が続くことになった。朝廷に和歌や詩を献じた記録はたくさんあるので、文化人としては相変わらず評価が高かったようだが、官職には恵まれなかった。 結局、前述した正五位下左少弁に任じられるまでに、8年を要している。ふたたび官職を得ることができたのは、娘の紫式部が『源氏物語』を書き、中宮彰子の後宮を盛り立てるのに貢献したことが影響しただろう。彰子の父の道長がそれに配慮し、さらには越後守に任じた可能性は高い。 ただし、ドラマで描かれているように、紫式部の娘の賢子が、じつは藤原道長との不義の子だったからではない。あの話はあくまでも『光る君へ』の創作で、フィクションある。 さて、赴任先の越後国で長男の惟規を失った為時は、今度は10年前のように任期をまっとうすることができなかった。
出家しても続いた宮廷人との付き合い
『光る君へ』で秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』には、長和3年(1014)6月17日の条に、「越後守為時の辞退状を下し給ふ。許不の事を定め申す」と記されている。為時の辞任について、審議が行われたというのだ。赴任してちょうど1年が経過した時期のことである。まだ1年の任期を残していることから、反対意見も出たそうだが、結局、前任者で甥の藤原信経に譲るかたちで辞任が認められた。 為時が辞意を表明した文書には、任期と定められた4年間に中央に納めるべき税は、究済した(すべて納めた)と書かれている。国守を務めるのも2回目なので、国の支配を効率的に進められたということかもしれない。 いずれにせよ、税を究済して前任者に引き渡したのだから、体調不良だったわけでも、投げ出したわけではないと思われる。都から遠く離れた赴任地で長男を失った悲しみに、耐えきれなかったということではないだろうか。 為時の帰京から2年近く経った長和5年(1016)5月1日、実資は『小右記』に「一昨日、前越後守為時、三井寺に於いて出家す」と記している。滋賀県大津市の三井寺で出家したという。60代後半だったと思われるが、ただ、宮廷との関係を断って仏道に専念したわけではないようだ。 小右記の寛仁2年(1018)正月21日の条には、摂政になった道長の嫡男の頼通が、はじめての正月の行事である大饗を行ったときのことが書かれている。4尺(約1.2メートル)の大和絵の屏風が新調され、そこに詩が書きこまれ、藤原斉信や公任のものに交じって「為時法師」の詩も加えられたという。宮廷人との付き合いは続いていたようだ。