【光る君へ】最愛の息子・惟規を失って… 紫式部の父「為時」の切なすぎる晩年
長男惟規の急逝
まひろ(吉高由里子、紫式部)の弟の藤原惟規(高杉真宙)が、従五位下に叙された。この位からは、天皇が日常生活を送る清涼殿に上がることが許される。つまり、ここからが貴族と見なされる節目の官位なのである。続いて、春の除目(官職を任命する朝廷の儀式)では、父の為時(岸谷五朗)も越後守(佐渡を除く新潟県の長官)に任じられた。NHK大河ドラマ『光る君へ』の第39回「とだえぬ絆」(10月13日放送)。 【写真】大河劇中とはイメージが違う?“金髪の惟規” ほか
長く無官が続いていた為時は、その2年前の寛弘6年(1009)にも、正五位下左少弁に任ぜられていた。そこからさらに出世を重ねたわけだが、このときすでに60歳を超えていたと考えられる。かつて赴任した越前国(福井県東北部)より遠く、より雪深い越後国までの旅は困難だからと、惟規が同行することになった。 ところが、越後の国府に向かう途中で惟規は、馬で移動中に急に体調を崩し、到着した国府で寝込み、次の歌を詠んで、息を引きとってしまう。 「都にも 恋しき人の多かれば なほこのたびは いかむとぞ思ふ(都にも恋しい人が大勢いるので、今回は病気を乗り越えて、生きて帰ろうと思う)」 ドラマで死に際の惟規が絶筆したこの歌は、『後拾遺和歌集』に採録されている。 為時が越後守として赴任したのは、寛弘8年(1011)2月1日のことだった。父の身を案じるあまり、蔵人式部丞という官職を辞して為時に同行した惟規が、越後に到着後、どの時点で、どんな理由によって命を落としたのかは、わかっていない。だが、還暦をすぎて遠国の越後に赴任しながら、その地で最愛の嫡男を失った為時の嘆きと悲しみは、想像するに余りある。
漢詩文の能力を買われて越後守に
為時は文章生の出身で、和歌や漢詩に通じ、同時代における指折りの文化人だった。文章生とは、大学寮で詩文や歴史を学び、まず擬文章生となり、さらに式部省の試験に合格した人を指した。いうまでもなく、紫式部の執筆活動にも大きな影響をあたえた。 ただし、それにしてはというべきか、文化に偏重しすぎていたからか、宮廷での出世にはあまり縁がなかった。永観2年(984)、花山天皇が即位した際、六位蔵人式部丞に任ぜられるも、2年後の寛和2年(986)に花山が出家すると、官職を解かれてしまう。その後、10年にもわたって無官のまますごしたのち、長徳2年(996)正月、藤原道長が事実上の最高権力者になって最初の除目で、越前守に任ぜられた。 為時の赴任先は最初、淡路国(兵庫県淡路島、沼島)とされた。当時、日本には68カ国ほどあり、国力によって「大国」「上国」「中国」「下国」に分けられていた。為時は生産力が高い「大国」の越前国への赴任を希望していたが、あてがわれたのは「下国」の淡路国だった。 『今昔物語集』や『今鏡』によれば、淡路守に任じられた為時は、嘆いて以下の詩を書いたという。「苦学の寒夜 紅涙襟をうるほす 除目の後朝 蒼天眼に在り(厳しく寒い夜も学問にはげみ、血の涙で襟を濡らしてきたが、除目の結果を知った翌朝、目には青空が映るだけだ)」。 それを見た一条天皇が感涙したのを受けて、道長は為時を越前守にしたという。説話に書かれた内容で、そのまま史実とはいえないが、為時の漢詩の力が任官につながったことが示唆されている。また、そのころ越前には宋国人70人余りが上陸し、交易を求めていた。彼らと折衝するためにも、為時の漢詩文の能力が買われたと考えられる。