「こんなもん話になるか!」…「浪速のモーツァルト」キダ・タローさんが見せていた凄まじい「茶番力」と見事な「キレ芸」
松竹・吉本の間で、芸能界を泳ぎ切る!
関西の芸能界は、戦後しばらくは松竹芸能、昭和の「漫才ブーム」からは吉本興業がテレビ・ラジオを寡占してきた。その中で、キダさんは音楽系事務所の「昭和プロ」に長らく所属し、「作曲家・音楽家」の立場で2大勢力のスキマを泳ぎ切った。 キダさんは作曲家としては恐ろしく高いトークスキルを持ち、自身の帯番組「フレッシュ9時半!キダ・タローです」(ABC)を16年も継続している。ほぼ同時期に裏番組(MBS)で始まった「ありがとう浜村淳です」が50年、「ごめんやす馬場章夫です」が31年も続く中、パーソナリティとして聴取率1位を争うだけの実力を持ち合わせていたのだ。 立ち位置としては文化人にも近い「作曲家」の立場で颯爽と登場し、おだやかなトークに徹しつつも音楽にはことさら厳しく、ボソッと毒舌を入れ込む。また、若き日の笑福亭鶴瓶さんを相手に「鶴瓶のアホーーー!!!」と繰り返す、「天丼」(同じボケを何度も続ける手法)をサラッと使いこなしていた(鶴瓶さんの返しは「キダのアホーーー!!!」で対抗)。 しかも音楽家だけあって、芸人のトークをワンテンポ外し、おちょくる(からかう)ような手口は抜群に旨い。キダさんの「関西弁の抑揚で標準語を話す」スタイルは心なしか、音楽にも通じるものがありそうだ。 「作曲家」という特異な立場からトークを繰り出し、音符をテンポよく操るような “チャチャ入れ”ができる人材は、松竹にも吉本にもいない。かつ、ABC(大阪朝日放送)以外での出演が少なく、タレントとしての活動範囲は意外と狭かった。 この環境で「作曲家としては抜群に面白いおっさん」という独自のポジションであり続けたからこそ、芸人が一大勢力を築く関西で、トークを武器にして半世紀以上も渡り歩くことができたのだろう。
なぜ関西に居続けたか?
なお、1930年生まれのキダさんと同時期には、東京で小林亜星さん(1932年生まれ。代表作は日立「この木なんの木」など)、渡辺岳夫さん(1933年生まれ。「キューティーハニー」など)、山本直純さん(1932年生まれ。「8時だョ!全員集合」など)が早くから作曲家として名を成している。 作曲家・服部正氏の門下生である小林さんや、パリ留学まで経験したクラシック畑の渡辺さん、指揮者としても有名な山本さんと違い、キダさんはジャズピアノの独学から地位を築いている。作曲家同士での競争も少なく、トークを活かせる地元・関西にいた方が、キダさんには性に合っていたのかもしれない。 そもそも、「5000曲を作曲」という肩書も自称であり、キダさんご本人が「ここまで来たら誰も数えられん」「言うたもん勝ち」と公言している。関西の地に居続けたからこそ、「浪速のモーツァルト」と呼ばれるほどの大御所作曲家として、キダさんは半世紀以上も幅広く活動できたのではないか。